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ツシマ沖の海戦(その二百三十三) The Battle of Tsushima
2007-02-22 Thu 00:00
少々、横道にそれることになるが、一度復習をしておきたい
日本満州軍の総司令官は、大山厳であり、それ補佐する総参謀長は児玉源太郎である。
麾下の満州派遣軍は、以下の五つに区分されていた。
すなわち、黒木為の率いる第一軍、奥保鞏の第二軍、乃木希典の第三軍、野津道貫の第四軍及び川村景明の鴨緑江軍である。
対するロシア極東軍の編成は、総司令官はクロパトキン大将、参謀長はサハロフ中将である。隷下の兵力は、シベリア第一から第五軍団に加えて第十軍団及び第十七軍団、それに予備兵力として第一軍団と数個の支隊と派遣隊が後置されていた。
師団数で比較すると、奉天会戦時の日本陸軍五個軍、十四個師団、ロシア軍は七個軍団、十四個師団、兵力にすると日本軍二十五万、ロシア軍三十一万が春なお遠い満州の荒野で死闘を展開したのである。
一つ付け加えておくと、この戦いでは、日本軍は後備歩兵第一旅団、後備歩兵第十五旅団も第一線に投入している。
ちなみに、後備の意味は、後方に配置され、占領地の管理・守備等を担当するものというほどのことであり、戦力も通常の旅団の三分の二、兵員の年齢も高い。
兵力不足が明らかな日本陸軍は、この後備を前線に投入せざるを得なかったのである。
「後備はなんの役にもたたない」と、総司令部付の参謀松川敏胤が罵ったとい話が残っているが、後備の招集将校のうちには五十台の大尉すらもいたのである。
例えば、鴨緑江軍の第一後備師団は、老兵揃いであり、訓練も行き届いてなかった。
この師団は、編成されてから僅か百日目に満州へ引き出されて、偶然とはいえ、奉天会戦の口火を切る戦いをさせられた。
しかし、それは現役師団についても同様であった。
初期のころは、ことごとく現役兵で編成されていたが、死傷が相次ぐたびに、その補充として応召兵が当てられた。
若いある中尉も、「かかる烏合の衆に等しい三ヶ月教育の補充兵が、我が軍の大半を充たして居る」と嘆いているほどである。

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