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ツシマ沖の海戦(その四百二十一) The Battle of Tsushima
2007-08-31 Fri 00:00
三月十六日正午、ノシベの艦隊に「抜錨用意」の命令が下った。
実際に、各艦が海面を滑り始めたのは午後四時になっていた。
二ヶ月半も居座ったこのアフリカの漁村から離れる時がやってきたのだ。
四十五隻からなる大艦隊が、じりじりと焼けるような太陽の下で、未知なる運命を求めて極東へと旅立とうとしている。
艦体を白く塗った二隻のフランスの駆逐艦が、しばらく艦隊の見送りを行った。
「航路つつがなきを祈る」という信号旗がマストに掲げられている。
スワロフの後甲板では、軍楽隊が駆逐艦の見送りの答礼のために「ラ・マルセイエーズ」を演奏した。
真昼の熱帯の烈日の光が、軍楽隊の真鍮の吹奏楽器にきらきらと照り映えた。
スワロフの艦橋には、盛装したロジォストウエンスキー中将が立っていた。
彼は側に立つ艦長イグナチュウス大佐とともに、フランス駆逐艦に敬礼を送った。
珍しいことに、日頃気難しい提督の面貌にも柔らかい微笑が浮かんでいた。
艦隊は、見慣れた島々を回りこみ、外洋に出ると針路を北にとった。
そして、マダガスカル島の北端をかすめて印度洋に進んだ。
二列縦隊になった艦隊は、間に輸送船団を挟み込むようにして巡航した。
先頭には軽巡洋艦スペトラーナ、アルマーズ、ウラルが警戒部隊を編成して航行した。
後尾の哨戒は、巡洋艦オレーグ、アウローラ、ドンスコイが受け持った。
左右両翼には、ジェムチウグ、ドニエプルとテレークが配置された。
艦隊の総数は、戦艦八隻、巡洋艦八隻、補助巡洋艦四隻、駆逐艦九隻、輸送船その他の補助艦船十六隻の四十五隻である。
その隊列は四マイルにも及んだ。
他を圧する大艦隊の威容であった。
ところが、その内実は違った。
抜錨直後から故障艦が続出する有様であった。
アリョールでも機関冷却機の管が破裂した。
海水が士官室に流れ込んだ。
アリョールは艦列を離れ、修理に専念することになった。
しかし、修理には夜通しかかった。
その間、艦隊は速度を五ノットに落として、片方の機関で運転するアリョールに付き添った。
ボロジノは抜錨の際に、搭載艇を引き上げる起重機の歯車が破損し、アリョールに予備歯車を依頼してきた。
このような事故のせいで、ノシベ出発午後一時の予定が三時間もずれ込んでしまったのだ。

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ツシマ沖の海戦(その四百二十) The Battle of Tsushima
2007-08-30 Thu 00:00
三月十日、艦隊中を駆け巡っていた三月十一日出港の噂は泡と消えた。
提督は軍令部から通知のあった三月十三日到着予定の輸送船イルティシを待つことに決めたのだ。
提督はアリョールが二千三百五十トンしか石炭を積まなかったことに立腹していた。
彼は同艦に更に百五十トンの積載を命じた。
各艦ともに石炭の他に四か月分の食糧、消耗品を輸送船から積み換えた。
積載は大幅に過重して、戦艦の舷は深く沈み込んだ。
外観は一見、別の艦かと見間違うほどの有様となった。
何しろ喫水線の上には補助装甲板が僅かに顔を覗かせているばかりである。
これでは、少しの傾斜や浸水でも転覆してしまうだろう。
三月十三日、奉天敗戦の知らせが届いた。
会戦の結果は、フランス新聞社の通報によって明瞭になった。
旅順の降伏により、包囲を解いた乃木軍の参加で増強された日本軍により、ロシア陸軍は打ち破られたのだ。
ロシアの損失は、捕虜五万人、死傷者五万人を数えた。
奉天は、全ての武装と軍需物資とともに日本軍に明け渡された。
数百門の大砲、数十万挺の小銃、数千万発の弾薬、馬匹、馬糧、馬車、穀物が日本軍の手に渡ったのだ。
総司令官クロパトキンは解任され、後任にはリネウィッチ将軍が任命された。
これは、回復できないくらいの敗北であった。
ロシアにとって唯一残された希望は、ノシベに滞留するこの艦隊だけであった。
ノビコフ・ブリボイは記している。
「だが、わが陸軍を滅ぼしたその呪うべき官僚的、専制的組織が、わが海軍にのしかかっていることを、陸軍は知っているのだろうか。彼らがわが海軍力、われわれの救援という空な信頼で欺かれているのを、思うと心臓が凍りつくような気がする。われわれをロシアへ呼び戻さないとすれば、先へ進むばかりだ。
それも、ただわが艦隊が自分の壊滅によって、極東の天地に展開された恐るべき叙事詩を完結させるために」
提督は、四十五昼夜の航海に見合う機器補充物品の積み込みを三月十四日までに完了するように各艦に通達した。
艦隊の乗組員は、幕僚から出た三月十六日にノシベを出航する予定である、という情報を得て、一同軽い興奮を覚えた。
満州の戦況を知った提督は、ネボガトフの増援部隊の到着を待たずに出発する決心を固めたのだ。
旗艦のマストに信号旗が揚がった。
「命令受領後二十四時間以内に抜錨できるよう準備せよ」

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ツシマ沖の海戦(その四百十九) The Battle of Tsushima
2007-08-29 Wed 00:00

乗組員の間で、鬱屈した不平が高まり、いつ爆発しても不思議はない状態になっていた。
これは、決して扇動者による計画的なものではなく、水兵たちの体内には不満という危険な病原体がじわじわと広まりつつあったのだ。
アリョールでも艦橋で当直水兵が居丈高に士官を罵倒する場面があった。
また、艦艙部水兵が士官の命令に腹を立て、その士官の面前で罵ったという事件も起こった。
善き海軍の伝統は跡形もなくなった。
水兵の態度の端々に皮肉と不遜さが顔を出していた。
彼らは言葉に出さなくても、「見てな、士官の旦那方よ、間もなくわし等の時代が来るのを」
と腹の中で毒づいていることを、全ての士官は感じ取っていた。
ロシア本国においても、かっての農奴制は廃止され、農民の間には自由に対する期待は高まっていた。
農民は昂然と頭をあげ、地主の顔を見返した。
水兵もまた同じであった。
上陸したある士官が本国で起こりつつある政治情勢を耳にして帰ってきた。
それによると、ペテルブルグの閣僚会議では、早期に立憲政体への移行が必要であるとの確認を行った、とのことである。
しかし、皇帝ニコライ二世は、父祖から受け継いだ政治体制を守護する義務があると主張して、この進言を退けた。
マルセーユからの定期船がロシアからの新聞を運んできた。
この便で運ばれたロシア紙の最終日付は一月二十日であったが、紙上には工場のストライキと皇宮広場へ向かうデモ行進や広場での大量射殺事件等の記事が載せられていた。
艦隊内では、二三日うちにもインド洋に向けて出発するという噂が飛び交っている。
それを裏付けるように、提督から各艦に貯炭量一杯まで補給を終わるよう指令が出された。
アリョールも新たに二千三百五十トンの貯炭を行った。
このため、艦の平均水没は三十一フィートとなった。
これは、既定喫水より五フィートも深くなっているのである。
砲甲板は水面から僅か二フィートの高さである。

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ツシマ沖の海戦(その四百十八) The Battle of Tsushima
2007-08-28 Tue 00:00
ロジェストウエンスキーの艦隊は、イギリスの新聞により、日本海軍の戦力はなお増強されつつある、という情報を得ていた。
それによると、千九百五年末までには建造中の新鋭装甲巡洋艦三隻が戦列に加わることになる、という。
それら各艦の排水量は一万一千トンで速力は二十一ノットが出せる。
しかも、喫水線全長にわたって装甲が施してある。
満州の前線からも、ロシア軍の不利の報せが届いている。
フランス紙によれば、吉林は既に日本軍によって占領され、ロシア軍前線は各所で圧迫を受けている、とのことである。
最近は、各艦の士官集会室では、艦隊が印度洋を経てスンダ列島に達するのに、どの進路を選ぶのかについて、推測を交えた熱心な討論が行われるようらなった。
勿論、太平洋に出るには、スマトラ島とジャワ島との間を通るルートとスマトラ島に沿ってマラッカ海峡を通過するかの二つのルートに分かれることになる。
ところが、艦隊の士官連中が驚いたのは、旗艦の幕僚たちがオーストラリアの海図を研究しているという噂である。
ロジェストウエンスキーはオーストリアの西岸沿いに太平洋に入ろうとする準備をしているのではないか。
このような無用な噂が駆け巡るのも提督の生来の性格に起因していた。
驚くべきことに、ノシベでの滞留中、提督は一度たりとも幕僚会議を開いていない。
したがって、旗艦の幕僚長すら艦隊が何処へ向かうかは知ってはいなかったのだ。
ただ、厳格で部下を少しも信頼していない司令官だけがそれを知っていたのだ。
彼の本心を正直に披瀝すれば、おそらく本国への帰還を望んでいたに違いない。
満州でのロシア陸軍の敗色は濃かった。
ロシア帝国の威信を保つ唯一の手立てである軍事力は、いまやロジェストウエンスキーの艦隊のみといっても、決して過言ではなかった。
その最後の武力をロシアは喪ってよいものであろうか。
しかし、ペテルブルグの海軍省はロジェストウエンスキーを呼び戻そうとはしなかった。
彼に残された唯一の希望は艦隊決戦を避けて、無事ウラジオストックへ入港することであった。

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ツシマ沖の海戦(その四百十七) The Battle of Tsushima
2007-08-27 Mon 00:00
三月一日、ノシベの艦隊では、幕僚から出たという驚くべき噂が飛び交っていた。
ペテルブルグとの合意ができない提督は、今後は海軍省の命令を無視する、というものである。
彼は遅くとも、三月十日までには、ノシベを離れスンダ列島に向けて出航するつもりでいる。
ドイツの給炭会社とも、サイゴンまでに限り、石炭補給を継続するという契約が成立した、というのである。
ただ、提督は、輸送船イルティシの到着まではノシベ滞留もやむを得ない、と考えている。同船は、実戦用と訓練用の砲弾を積載しているし、ノシベに着くのも間もなくであるからだ。
現在、この艦隊には備砲、機関の予備部品、食糧、軍装等の物資が二か月分しか貯蔵されていない。
特に、乗員に対する軍装の支給が不足していた。
過酷な航海に加えて、石炭積み込み作業や過大な石炭貯蔵のため生活空間を奪われた水兵たちの靴や軍服の痛みは激しくなった。
皮肉なことに乗員たちの最大の悩みは、スボンや靴を繕うことにあった。
水兵達は、互いの姿を見あいながら「極東では、日本兵がロシア兵を指して『襤褸を着た兵隊』と嘲っているそうだが、俺たちもその仲間入りだな」と自嘲し合った。
事実、乗組員は靴その他の履物を履いておらず、服もぼろぼろであった。
水兵の半分が、その象徴である水兵帽を被っていなかった。
彼らは布片でコックが被る丸帽のようなものを手作りし、それを頭に載せていた。
機関室では,裸足で勤務することはできないので、当直用の靴が備え付けられ、当直者の交替とともに靴も引き継がれた。
来客時の送迎のためにタラッブに整列する儀仗兵の服装もまちまちで、とても皇帝の海軍兵とは見えなかった。
有態に言えば、それは海賊の集団にしか見えなかった。
ロジェストウエンスキー提督は、再三にわたりペテルブルグに自分の艦隊の服装の悲惨さについて訴えたが、その要求は無視され続けた。

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ツシマ沖の海戦(その四百十六) The Battle of Tsushima
2007-08-26 Sun 00:00
ところで、この当時、日本は二等巡洋艦以下の小型の軍艦については、自国での製造能力を有していたが、戦艦等の主力艦については、海外に依存せざるを得なかった。
特に戦艦に関しては専ら英国に発注していた。
日本は基本的な方針についてのみ注文を行ったが、細部に関しては英国の造船所任せであった。
他方、ロシアにおいても、その戦艦はフランス製や米国製のものもあったが、自国での建造艦が大部分であった。
ロシア帝国は、極東の風雲が急を告げ始めた明治三十一年から三十二年にかけて米国と仏国にそれぞれ一隻戦艦を注文した。
レトウィザンとツェザレウィチである。
ロシア海軍は、このうちフランス製の軍艦を気に入り、それをモデルにして戦艦四隻を自国で建造した。
いわゆるボロジノ型戦艦である。
ロジェストウエンスキー提督の艦隊のうち、五隻までが竣工直後の若い戦艦であった。
中でも旗艦となっているスワロフは、まだ艤装が完了しないうちに編成に入り、完成直後に航海についたため、艦長以下が艦に馴染んでいなかった。
そのような錬度不足はロジェストウエンスキーの悩みであった。
しかも、この新鋭戦艦群は一つの大きな欠点を有していた。
それは復元力の問題であった。
構造上の重心の高さは、フランス製戦艦譲りであった。
余談となるが、戦艦アリョールは、ペテルブルグ海軍工廠からクロンシタット軍港に回航し、内港に係留して艤装中に浸水傾斜する事件を起こしている。
艦は、回航された当夜、繋留索を引きちぎり片舷に三十度ほども傾き、艦内の各部は海水が充満した。
原因は装甲板取付ボルト孔からの浸水であったが、このアリョールの水没は、太平洋第二艦隊の準備に大きな障害となった。
もともと、この艦の完成は、もっとも遅れる予定となっていたのだが、この事故によりなお艦隊の出発は遅延することとなった。
排水、復原、故障個所の修理に相当な時間をとられ、砲装備の完了は大幅に延期となったのだ。
クロンシタットでは、日本のスパイが潜入し、艦内の者を買収して艦底の弁を開いたのではないかという噂が広まった。

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ツシマ沖の海戦(その四百十五) The Battle of Tsushima
2007-08-25 Sat 00:00
二月二十八日、停泊中の各艦では、艦体についた貝や海藻の除去作業が酣である。
本来なら乾ドックに入渠して行う作業であるが、ノシベではそれは不可能である。
潜水夫を潜らせたり、鉄の掻き落としをつけた鋼索を使ったりして作業は進められた。
戦艦では、喫水線下七フィートまで海藻が青いひげのように揺らめいていた。
アルマーズ、スワロフ、アレクサンドルでは艦底の掃除は終了した。
現在は、ボロジノとアリョールが清掃作業中である。
潜水夫の話によると、艦底の水平な部分に貝も海草も付着してはいないとのことであった。
戦艦では、この清掃により速力一ノット半から二ノットは増す筈である。
巡洋艦イズムルドで、舵の底部が破損したため、潜水夫を入れて昼夜兼行で修理を行っている。
提督は、外洋の訓練を行うと燃料消費が進むため、停泊状態で行える新しい形式の訓練を導入した。
それは、敵魚雷艇を撃退する訓練である。
敵魚雷艇には艦載の水雷艇が当てられた。
戦艦は探照灯の光線で防御線を敷き、その光線で敵魚雷艇を捕えてから、魚雷発射位置にまで進む時間経過を計る、というものである。
攻撃魚雷艇の速力は二十乃至二十五ノットである。
したがって、光線に捉えられてから、魚雷発射位置にまで達するのに二、三分しかかからない。
本日の訓練で、わずか十二ノットの水雷艇が発見されてから一分二十秒でアリョールの舷側に達してしまった。
訓練の結果は芳しいものではなかった。
政府が日本と和平交渉を始めた。
交渉の結果が判明するまで、艦隊は、マダガスカルに滞留を続ける、という噂が広まった。
艦隊は、当地で黒海からのネボガトフ少将の増援艦隊が合流するのを待
機する、という噂も実しやかに囁かれた。

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ツシマ沖の海戦(その四百十四) The Battle of Tsushima
2007-08-24 Fri 00:00
巡洋艦ウラルには、かねがね良からぬ噂が立っていた。
同艦では、士官たちと艦長、副長間が険悪になっている、というものであった。
艦長や副長は、ウラルのような無防備な艦は一旦戦闘に巻き込まれたら、直ぐ撃沈されてしまうに違いないと公言し、日課表も作らず戦闘準備も怠っている、というのだ。
見かねた士官たちが主導して、事を運ぼうとしても艦長はそれを許可しなかった。
士官たちは、この艦に異常事態が発生しているとして提督の注意を引こうとしたが、艦長はその士官が発狂していると、旗艦の幕僚に報告した。
ウラルの艦長イストミン中佐は、将校集会室で士官たちが政府の行政、軍首脳部の命令について批判することを禁じていた。
同艦のK大尉は、この艦長命令に対して,抗議の上申書を提出した。
その書面には、こう記されていた。
「貴下の命令書を拝読して、恐怖の感情を抑えきれません。このような命令が出すことができるのは、良心と徳義心の欠片を持ち合わさない者であると言わざるを得ません」
この事件は、特別委員会による判決が下された。
それによると、K大尉は階級と勲位を剥奪され、海軍から追放されることとなった。
しかし、この判決は提督の承認を得なければならなかった。
ロジェストウエンスキー提督は、K大尉の上申書の不遜な表現に激怒した。
提督は,大尉を一兵卒の身分に降格することを考えていた。
そのような処置は、もちろん、海軍刑法の条文に適合するものではない。
もっとも、提督にとっては、法の条文や裁判の手続きは、大した意味をもつものではなかった。
提督は、皇帝の代理人であり、自分の艦隊の最高権力者であった。
つまり、バルチック艦隊における小皇帝である彼は、自分の判断によって行動するだけであった。
しかし、本件に関しては、法律の則を超えて処罰することはできないと主張する法務官の説得が功を奏して、結局、K大尉に対する処罰は勲功剥奪と四カ月間の営倉という判決に落ち着いた。
最近では、演習の後には必ず軍法会議が行われるようになった。
事件の数も多くなっており、その内容は大部分が水兵や軍紀違反である。

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ツシマ沖の海戦(その四百十三) The Battle of Tsushima
2007-08-23 Thu 00:00
結局、ノビコフは、艦長ユングの事を荒立てることを好まない性質により、救われることになった。
艦内には法の監視人である法務官が配属されていた。
そこで、形式を整えるために、許可なしにタイプライターを使用したことなどの件により、ノビコフにはある期間の減俸処分を言い渡された。
長引いている滞留と本国との音信不通、加えて熱帯の酷暑などから艦隊の士気は目立って衰えてきた。
司令長官ロジェストウエンスキー提督は、それを訓練により引き締めようと図った。
二月二十一日、ロジェストウエンスキーは全艦隊を率いて外海に出た。
バルチック艦隊は、仮想敵艦隊が縦列または横列に展開している場合を想定して、攻撃のための編隊替や全艦一斉十六ポイント反転等の訓練を行った。
この機動演習が全て滞りなく行われたとは言い難かった。
反転して逆コースに入る訓練では、戦艦四隻が隊列を乱し、危うく衝突するところであった。
アリョールは舵の切り方が小さく、そのため大きく円を描いたが、一方、ボロジノの方は、鋭く小さく回転したので、アリョールの艦尾に突っかかってきた。
転回前の両艦の距離は僅かに二鏈長であったため、あっという間に両艦の距離は縮まった。
ボロジノは慌てて舵を元に戻し、機関を停止した。
両艦は十尋にまで接近して、危うくすれ違った。
更に危機は続いた。
このとき、後続のアレクサンドル三世は、ボロジノの艦尾すれすれにまで接近し、危うくすれ違ったのである。
このような醜態が繰り返されるのは、提督と各艦の艦長との連絡体制が十分に確立していないためであった。
機動演習から帰還すると、アリョールの法務官は至急の呼び出しを受けて、スワロフに赴いた。
これは、提督の命令により、巡洋艦ウラルで起こった事件の裁判のための下準備であった。
数名の艦長が委員として任命された。

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ツシマ沖の海戦(その四百十二) The Battle of Tsushima
2007-08-22 Wed 00:00
本国での社会的動静は艦隊内にも徐々に浸透してきた。
二月十八日、アリョールの艦内で、それを例証する事件が起こった。
主計下士官ノビコフが、砲塔の下士官連中に小冊子を配布しているのを副長のシベデが見つけたのである。
副長はノビコフを政治的宣伝活動の嫌疑で逮捕したのである。
この冊子はノビコフが書いたものを、事務室の兵員が数部タイプしたものであった。
ノビコフはアリョールに配属される前にクロンシタットで、革命運動かとして注意人物のレッテルを張られていた人物であった。
副長は、押収した小冊子を将校集会室に持参して、皆でその内容の検討を始めた。
その結果、ノビコフがこの小冊子を書く動機となったのは、将校集会室に置かれていた新聞ルーシに掲載されていた論説であることが判明した。
彼は、その新聞によって民衆の胸から迸る熱烈な手紙を読んだのだ。
ノビコフは、如何に知識というものが、個人の運命に,ひいては国家生活の調和に影響を及ぼすかを述べ、更に下層階級のロシア人が限界を極める得る普遍的な方法を説き、最後に彼自身の例をあげて次のように説明した。
農民出身の彼のような境遇にある者が独学で勉強するには、如何に多くの障害に取り巻かれていたかを縷々として述べた。
そして、大衆の啓蒙活動を妨げる要因は官僚政治にあるとし、ツアー政治が民衆に与えている諸悪を列挙してみせた。
そのあと、大衆の幸福のために高い理想を掲げて勇敢に進もう」という絶叫で締めくくっていた。
戦場に赴く途上にある軍艦の中で、個人の自由な意思発表を禁じられ、上官の命令には絶対服従の状態の中でのノビコフの行動は到底容認されるものではなかった。
しかし、この事件を審査した将校連中の態度はいつもと違って至極進歩的であった。
ウラジミール・コスチェンコも軍医長とともにノビコフを擁護した。
法務官ダブロウォリスキーを筆頭に、ギレス大尉らがこれを支持した。
そのため、それが将校集会室の大多数の意見を形成することになった。
ためらっていた副長もこれに従うこととなった。
当然のことながら、副長は当初はこの事件を正式の手続きを経て上申するつもりでいた。
将校たちはノビコフの檄文の内容を検討して、そこに記されている艦内生活の件はいずれも真実であることを認めたのだ。
また、その中で指摘されている欠陥は実際に存在し、それがロシア海軍の進歩を妨げているのも事実である。
海軍では技術を習得し、独自の判断のできる兵員が要求されているのにかかわらず,召集で補充された水兵の中には読み書きも碌にできない者が多く混じっていた。

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ツシマ沖の海戦(その四百十一) The Battle of Tsushima
2007-08-21 Tue 00:01

更に、不思議と言えば不思議なのだが、ノビコフ・ブリボイの著作「ツシマ」には、次のような描写がある。
「我々の軍艦では、砲術長が砲火指揮所から,文字盤によって砲手を指揮するように訓練していた。
こういう文字盤は、各砲塔、砲台、砲甲板の遮蔽砲にも備え付けてあった。
その文字盤の各指針は、電流の力によって動き、打ち方始め、打ち方止め、目標割当、照尺距離、装填すべき砲弾の種類、などが、この文字盤の指針によって示されるのだ。
火蓋を切る用意が整うと、砲長は文字盤を睨みながら号令を掛ける。
『目標、十八ケーブル、照尺四十五』」
これによれば、少なくとも新鋭戦艦アリョールにおいては、近代的な装置によって、指揮所から各砲側へ瞬時にして最新情報が伝えられたことになる。
伝令やメガフォンによって意思伝達を行い、伝声管すらも完備されていなかったという連合艦隊の当時の現状に比較すれば、それは雲泥の差としか表現のしようがない。
次に目標の識別訓練について触れておきたい。
連合艦隊では、敵の目標艦をその固有名詞で指示することにした。
そのため、予め敵の艦型と名称を兵員たちに教え込んでおくことが必要になる。
ところが、ロシア語の艦名は日本人にとっては極めて厄介な代物である。
そのため、水兵たちの暗記用の日本語名を編み出しておいた。
たとえば、「アレクサンドル三世」は「呆れ三太」、「ドミトリー・ドンスコイ」は、ゴミ取り権助」といった具合である。
各艦の砲側では、連日、指揮官が砲手を集め、艦型図を掲げながら、「これは何と言う艦か」と、猛訓練を続けた。
さて、再びノシベのバルチック艦隊のもとへ戻ることにしよう。
二月二十日、この日上陸したアリョールの主計官が、フランスの新聞「ジュルナール」を抱えて帰艦した。
それらには、ペテルブルグ、モスクワ、その他の地方大都市で発生した軍隊と民衆の小競り合い、各党からの政府への要求書の提出等の動きが記されていた。
ロシアの歴史上かってなかった、これらの革命的な事件は、ロシア艦隊の乗組員たちの心を強く揺り動かせた。
ロシア本国で醸し出されている政治情勢は、乗員たちにも、そのいずれに賛同するかを心中に迫られていたのだ。
無論、大多数は革命側に同情を抱いていた。

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A live launch report of "KAGUYA"
2007-08-20 Mon 14:43
JAXA plans to broadcast a live launch report of "KAGUYA" on the launch day(.10:35:47 a.m. on September 13)
Please enjoy it.

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ツシマ沖の海戦(その四百十) The Battle of Tsushima
2007-08-20 Mon 00:00
本海戦を迎えるにあたって、東郷大将の採用した射撃法は、「一斉打ち方」と称されるものであった。これは具体的にいえば、一艦の砲台砲ならびに一舷の副砲等をその艦の砲術長が掌握するという戦術である。
つまり、それまでの各砲ごとの「独立打ち方」を禁じたのである。
砲術長は見通しのきく艦橋に登り、目標とする敵艦までの距離を測り、それを各砲に伝え、その射距離で一斉に発射するのである。
砲術長は、メガフォンを通して、予め「発射用意」を告げておく。
そして、測定した結果割り出した射距離を各砲側に伝えるのである。
しかし、その伝達方法に問題があった。
伝令兵が小さな黒板に射距離を書き記し、砲側へ駆けて行く。
もっとも、実戦の場合には、彼我の砲声にかき消されて、砲術長の命令が聞き取れないこともある。
それでも、砲術の権威、故黛治夫海軍大佐は、この射撃法の変更で連合艦隊の主砲命中率は三十%向上した、と断じている。
では、この理論は誰が思いついたのか。
司馬遼太郎氏の坂の上の雲によれば、明治三十七年八月十日の黄海開戦の際に、三笠の砲術長を務めていた、海軍少佐加藤寛治である、としている。
加藤少佐は、朝日の砲術長時代にこの理論を創案し、三笠に転じてから、伊地知彦次郎艦長に建言して、絶賛を浴びた。
更に、黄海海戦において、三笠に乗っていた英国の観戦武官ベケナム大佐が、これを見て驚嘆した。
ペケナムは、そのことを直ちに英国海軍省に報告したが、既に英国海軍にあってもパーシー・スコット少将という人物が、これを創案し、実施の段階にまで漕ぎつけていた。
他方、ロシア側はこの点についてはどうであったのだろう。
ウラジミール・コスチェンコの書いた「捕らわれた鷲」の中には、砲戦中のアリョールの様子が、こう記されている。
「敵の集中砲火を浴びるようになって艦の砲撃の統一指揮は非常に困難な状態になった。・・・・一つの艦の中でさえ全ての砲火を一つの目標に統一できなくなっていた。司令塔は着弾を測定し修正することができなく、ただ測距儀で見た目標の距離だけを各砲に知らせ、各砲塔が自身で着弾を修正するという状態であった。」
これ描写を信じれば、バルチック艦隊においても「統一打ち方」は採用されていたことになる。

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ツシマ沖の海戦(その四百九) The Battle of Tsushima
2007-08-19 Sun 00:00
三笠は西進している。
夜が明けると、前方に茶色っぽい山並みが見えてきた。
緑の少ない巨済島の山である。
三笠は点在する島々の間をすり抜けるようにして加徳水道に入った。
水道には先発した艦隊が停泊していた。
やがて、艦首の方角に小さな半島が姿を見せた。
固城半島である。
この半島が抱きかかえるようにしているのが、三笠が目指す鎮海湾であった。
三笠が腰を下したのは、松真浦といわれるところである。
陸上には、この艦隊が使用すべき一屋も無かった。
無論、乗員のための慰安設備もなく、東郷を含めて艦内暮らしをするほかはなかった。
ロジェストウエンスキーのノシベとは大違いであった。
東郷は、この地に腰を据え、猛訓練を艦隊に課した。
東郷の課題は簡単明瞭であった。
命中率を上げる。
ただ、それに尽きた。
全ての水兵が後に「あと時ほど辛かったことはない」と述懐する、射撃訓練が開始された。
東郷の艦隊が採用したのは、「内膅砲射撃」といわれる方法であった。
これは小銃を筒内に設置しておき、砲を操作して照準を行い、砲員は小銃を目標に発射するのである。
この場合、弾薬量の一年分は各軍艦によって定められていた。
三笠の場合でいえば、二万八、九千発である。
鎮海湾の三笠は、これを十日ほどで使用してしまった。
このためにすぐ本国から取り寄せ、毎日夜明けから日没まで、小銃音の途絶えることはなかった。
最初の十日間ぐらいは、この銃声の騒がしさで、皆は気が変になりかけた。
しかし、東郷の不動心は微動だにしなかった。
汽艇がワイヤーをもって標的の乗った筏を引っ張っていく。
標的には的印が書かれていて、砲員たちは飽くことなく、それを狙い続けた。
鎮海湾における三か月余の訓練で、艦隊の砲員全てが自信をつけた。
大袈裟にいえば、百発百中の技量を習得したのである。


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ツシマ沖の海戦(その四百八) The Battle of Tsushima
2007-08-18 Sat 00:00
二月十六日、長い雨期が終わり、凄まじい熱帯の雷鳴が轟いた。
その日の午後、アリョールの艦尾の客室では、士官たちがソファーに凭れて思い思いに憩いを楽しんでいた。
バルコニー側に開いたドアからテントの縁がそよ風に揺れているのが見えた。
ウラジミール・コスチェンコは頬に快い微風を感じながらネマダガスカル島の緑の山並みや、静かに湾内に浮かぶ艦隊の姿をぼんやりと視線の片隅に捉えていた。
ところが、油を流したような湾内に突然異変が生じた。
さざ波が立ち始め、海の色がみるみる変化し始めた。
やがて、空には疾風に押された雲が広がり始め、見る間にノシベ海峡は黒雲に覆われた。
分厚い雨脚の壁がスワロフを包み隠し、白い帆を張った漁船が湾内を逃げまどった。
凄まじい閃光が両眼を射た。
続いて轟音が耳を打った。
艦列の隣にいるボロジノがたちまち、この自然の猛威に取り込まれた。
と思う間もなく、アリョールの舷側には、逆捲く波頭が叩きつけられた。
十分ほどで、この雷雨は去り、雨に洗われた緑の島々が真昼の太陽に照り映えていた。
さて、この頃、極東では東郷の艦隊は何をしていたのか。
二月十四日、三笠が呉軍港を出発した。
行先は、朝鮮海峡に面した鎮海湾である。
三笠は江田島により、その後、佐世保に入った。
佐世保港を出たのが、二月二十日である。
三笠は狭い水道を両岸の村々から出た小学生の日の丸の小旗に送られながら、ゆるゆると巨体を滑らせていった。
三笠の後甲板には、軍楽隊が整列し、軍艦行進曲を演奏した。

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New Launch day of "KAGUYA"
2007-08-17 Fri 13:51

The launch of the Lunar Orbit Explorer "KAGUYA" (SELENE) was rescheduled for 10:35:47 a.m. on September 13 (Thu), 2007, (Japan Standard Time).

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ツシマ沖の海戦(その四百七) The Battle of Tsushima
2007-08-17 Fri 00:01
艦隊は、ノシベに留まったままで、出港は何時になるのか誰にも分らなかった。
二月十二日、アリョールでは同名の病院船アリョールから客を迎えて昼餐会が開かれた。
無聊に苦しんでいた乗員たちは、この会合を大歓迎した。
会は賑やかに行われた。
病院船からは三名の軍医と看護婦三名が出席した。
他の軍艦からも六名の士官が招かれた。
昼食から軍艦旗降ろしの時間まで音楽会が開かれた。
この日のヒーローは、禁固を解かれたシェピンスキー少尉であった。
彼の華やかなテノールは、皆の人気を集めた。
少尉の成功には、無論、提督が一役買っていたのだ。
例の処罰命令により、少尉は艦隊中で一躍有名になっていたのだ。
会が終わりに近づくと、少尉連中が編成したマンドリン楽団が、勇壮な曲を奏でて、満場の喝采を浴びた。
この休日は、艦内作業、石炭荷役、訓練等に追われる艦隊生活に刺激を与えた。
一同は衣服を着替え、極力海軍軍人らしく陽気に振舞った。
当日に備え、甲板は磨きがかけられ、将校集会室の壁は塗り替えられた。
余計な物は取り片付けられ、床には小奇麗な敷物が広げられた。
当番兵は残り物の酒を残らず空にして酩酊した。
また、兵員たちも何処からか調達してきた酒を手に、機関室や下甲板で酒盛を開いた。
宴が終了してシェピンスキー少尉が客を送り届けるため舵輪につき、汽艇が舷側を離れようとしたとき、それを一目見ようとした乗員たちが右舷に集まった。
そのため、アリョールの巨体は四度ばかり傾斜した。
二月十五日の午前九時頃、アリョールでも兵員たちが騒ぎを起こした。
彼らが日頃から快からず思っていた兵曹を袋叩きにしたのだ。
集まってきた水兵たちは口笛を吹きならし、叫び声をあげて、兵曹長と兵曹の罷免を要求した。
騒ぎは一時間も続き、解散命令には応じようとしなかった。
遂に艦長が乗り出し、説得にあたり、ようやく騒ぎは沈静した。
艦長と副長は、この事件を提督には報告しないことにした。
しかし、乗組員の間では不満が鬱屈し、いつ爆発したも不思議はない状態であった。
現に、その日の夕刻、艦首甲板でまた乗組員が騒ぎだし、司令艦橋に向けて叫ぶ声が艦内に響き渡った。
不穏な様子に、兵曹長や兵曹は、いち早く姿を消した。

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ツシマ沖の海戦(その四百六) The Battle of Tsushima
2007-08-16 Thu 00:00
ノシベに停泊する各艦の乗員たちは、慰安のために上陸を許されていた。
そのため、ヘリウィユというノシベ湾沿いの漁村は見る間に歓楽街に変貌した。
新しく開かれた店には、「艦隊御用」とか「ロシア人のお客大歓迎」とか、ロシア語の看板が目立つようになった。
この街でひと儲けするために、近隣の島やアフリカ本土からも売春宿のおやじたちが集まってきた。彼らはフランス女、ドイツ女、イギリス女、オランダ女などを引き連れ、いつまで停泊するのか、それさえ誰にも分らない漂泊の艦隊の一万二千の男たちを相手に曖昧宿を立ち並べた。
粗野で浪費的な生活が繰り広げられた。
士官たちは賭博に夢中になり、大枚の紙幣がテーブルの上で乱舞した。
そのため、物価は際限なく上昇しビール一本が三フランにまで騰貴した。
駆逐艦グロズヌイの乗員が上陸中に現地民に乱暴を働き、四人が逮捕された。
それを耳にしたロジェストウエンスキー提督は、その連中をスワロフに引き立てさせた。
そして、皮肉が破れるほど折檻してから軍法会議にかけた。
水兵たちは泥酔して路上に寝ていたり、徒党を組んで町中を練り歩いた。
彼は士官を見ても敬礼もせず、それを咎めたある准士官は袋叩きにされた。
無論、彼らはロジェストウエンスキー提督の判決を受けたが、やがて提督も捌ききれなくなって、自然と艦長にそれが任せられるようになった。
その結果、今日はあの艦、明日はこの艦というように、しげしげと艦首に旗が揚がって,空砲が轟いた。
これは、特別委員会が開催され、誰かが重罰に処せられることを現していた。
艦隊の軍紀がどれほど乱れているかは、ロジェストウエンスキー提督の出す命令を見れば一目了然であった。
司令長官は彼自身がペンを取り、「命令第何号」という形で、規律違反者の弾劾を続けた。
たとえば、命令第六十一号、「二等巡洋艦ウラルの機関部少尉ザインチコフスキーは、軍服にて上陸し、畜類の状態に至るまで飲酒し、前後不覚に酩酊せる病院船アリョールの兵員に殴打されて出血す。
右少尉ザインチコフスキーは士官の対面を汚したるに依り、直ちに士官室より除名し、士官の職務執行を停止し、少尉に与えられたる権限を剥奪する予の命令を本人に通達し、ロシアの港に入るまで上陸を禁止す」という具合である。

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ツシマ沖の海戦(その四百五) The Battle of Tsushima
2007-08-15 Wed 00:00
二月十四日朝、艦隊は全編成で外海に出た。
遅れて本国を出発した巡洋艦部隊を出迎えるためである。
午前九時、北方の水平線上に六本の煙が立ち上るのが認められた。
各部隊は所定の位置に散開して待機していると、やがて六隻の艦影が視界に入ってきた。
巡洋艦オレーグ、イズムルド、三本煙突の補助巡洋艦リオン、二本煙突のドニエプル、その後に駆逐艦が二隻従っている。
新来の部隊は分散して、艦隊に占める各々の位置に就いた。
ドブロツウォリスキー大佐が艦長を務める巡洋艦オレーグは、エンクウィスト少将の第一巡洋艦部隊に入りアルマーズの後尾についた。
リオンとドニエプルは哨戒部隊に配属され、イズムルドと二隻の駆逐艦は旗艦スワロフの左横に占位した。
ノシベの泊地に近づくとイズムルドは旗艦の右側に移り、甲斐甲斐しく提督の座条するスワロフの先導をおこなった。
それ終えると全速で転回し、アリョールの艦尾をかすめて、ジェムチュクの艦首を横切り、その隣の位置を占めた。
アリョールの乗員は甲板に集まり、ウラーを叫び、新来の艦を歓迎した。
これで、ロジェストウエンスキー提督の艦隊は、戦艦七隻、装甲巡洋艦一隻、軽巡洋艦等が十隻、駆逐艦九隻、輸送船その他十二隻の勢力となった。
しかし、この勢力は、開戦当時極東に配備されていたロシア海軍力より明らかに劣っている。
当時の極東艦隊の編成は、新鋭戦艦七隻、装甲巡洋艦四隻、第一級装甲甲板巡洋艦五隻、第二級装甲甲板巡洋艦二隻、砲艦七隻、巡洋駆逐艦二隻、機雷敷設艦二隻、補助巡洋艦二隻、病院船一隻、駆逐艦三十隻、輸送船,曳船等であった。
ロシア側は、排水量、備砲、装甲の点から日本の戦力はロジェストウエンスキーの艦隊の約二倍優っていると見ていた。
そこで、この劣勢を挽回するため、ロシア海軍省は、リバーワで在来型戦艦五隻の第三艦隊改装を急がせているのである。
何度も触れるが、この第三艦隊については、ロジェストウエンスキー提督は、「この艦隊の参加は戦力の強化になるどころが、第二艦隊の足でまといになるだけだ」と、激怒しているのだ。
彼はその増援を拒否して、独力で極東へ向かうつもりでいるのだ。

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ツシマ沖の海戦(その四百四) The Battle of Tsushima
2007-08-14 Tue 00:00
シュピンスキー少尉事件は、全艦隊を震撼させた。
アリョール将校側の主張は、規則に縛られた形式的秩序に対する挑戦であり、海軍士官全体の友好的気運を盛り上げる結果となった。
それが兵種や階級を超えて他艦の将校たちにも支持された理由であった。
これに対して旗艦の幕僚は、問題をすべて法的解釈に委ねようとしていた。
事件のもう一方の当事者提督副官Sは、ロジェストウエンスキー提督の信頼の厚いお気に入りであったため、提督の過剰な干渉があったことが騒ぎを大きくしたのである。
副官の報告を聞いた提督は辛辣な表現を使った命令書を出し、アリョールの士官たちの自尊心を逆撫でにしたのだ。
ノシベの停泊が長引いているため、艦隊の乗員は自分たちの司令官を身近にみる機会が増え、彼の厄介な性格を嫌というほど思い知らされた。
彼は水兵の前でも、容赦なく幕僚や艦長を怒鳴り散らした。
水兵には自ら手を下して殴打することも珍しくなかった。
最近の出来事では、このようなことがあった。
それは早朝三時頃、スワロフの甲板で水兵が、甲板の整頓作業に従事していたときのことである。
その音で目覚めた提督は、甲板に登ってきた。
そこでの光景がこの癇癪持ちの提督に火をつけた。
哀れな水兵は、にわか雨で汚れた甲板を木製のスコップで清掃していたのだが、彼は迂闊にも甲板の木目沿いではなく、板目を横切るように使って、嫌な音を立てていたのだ。
立腹した提督は、直ちに当直士官を呼びつけた。
「貴官は、何か気付かないか」
「はい。閣下。スコップで甲板を掃いております」
「貴官は何も分かっていない。どんなやり方で掃いているのかと聞いているのだ」
と、言い終わるやいなや、提督は水兵の手からスコップを奪い取ると、水兵の艦面に叩きつけた。
そして、「これからも板目に沿って掃かないと、その場で殴打する」と、怒鳴りつけた。
提督は自制を失うと、粗暴な振舞に出てしまうのだ。
提督の逞しい体格と、射るような鋭い眼光は、水兵を震え上がらせるには十分であった。

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ツシマ沖の海戦(その四百三) The Battle of Tsushima
2007-08-13 Mon 00:00
二月五日、艦隊の幕僚将校と艦付き将校との間に諍いが起こった。
司令部からの命令により、アリョールからシュピンスキー少尉が指揮する汽艇を派遣した。午前の
少尉は憤然として、「何故? 何のために?」と叫んで舵輪に就くことを拒否した。
ロシア海軍には内規があって、士官は皇帝や提督が乗船したとき、その他運行上特に必要が場合を除いて、自ら操舵輪をとらなくてもよいことになっているのだ。
汽艇がスワロフに横づけにされると、くだんの将校はシュピンスキー少尉を下船させた。
二月六日、アリョールの将校集会室では、この話題でもちきりになった。
将校たちは憤激した。
なるほど、下級者は上官の命令を正しく執行する義務があるという規律からすれば、少尉には遺憾な点があったかも知れない。
しかし、一同は少尉の行為を是認した。
午前のお茶の時間に、アリョールの副長は、提督の命令書を読み上げた。
「戦艦アリョールのシュピンスキー少尉は、自分が侮辱されたと感じ、提督副官の命令を遂行しなかったため、汽艇から下船を命じられた。
シュピンスキー少尉は若年であることを考慮して、裁判には付さないが七日間番兵をつけて監禁する」
アリョールの将校集会室では、この命令を聞いて一様に憤慨し、提督副官に抗議書を提出することに決した。それは、提督副官の行為は艦隊の親睦的伝統に反するものであるという非難の内容であった。
この決定はアリョールの艦長および副長にも報告された。
この事件は幕僚将校と艦付きの将校との間の尖鋭化した関係を象徴するものであった。
この件は後を引いた。
アリョール将校団の連名の抗議文は、旗艦の幕僚室に大きな波紋を起こした。
当初は文書のやり取りが繰り返されたが、遂に対決という険悪な事態に陥った。
アリョール側からはギルス大尉が代表して出ることになった。
十二日現在、シュピンスキー少尉は依然として自室に監禁されている。

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ツシマ沖の海戦(その四百二) The Battle of Tsushima
2007-08-12 Sun 00:00
二月一日朝、艦隊は三度目の射撃訓練に出た。
編成は前回と同じである。
晴天であった。
今回は好成績のうちに演習は進んだ。
オスラビアが先陣をきり、三発の命中弾を得て、その距離を表示した。
アリョールも右舷の砲を使用して数発の命中弾を記録した。
旗艦スワロフは、標的の周囲を回り、縦列の殿艦ドンスコイの艦尾付近で転回して、逆方向に転わりはじめた。
各艦はこれを追走した。
アリョールは直ちに照準を定めて、射撃を再開した。
十二インチ砲二発、六インチ砲四発が標的を撃ち抜いた。
射撃訓練に入る前に、アリョールでは送気管の一つが破裂した。
第一汽罐室の第九汽罐のそれが故障したのである。
幸いにして汽罐員は上部に逃れ、負傷者はなかった。
気管の材質の粗悪さが、一再ならずこの種の事故を繰り返させている。
二月三日、海軍省から通達が届いた。
ロジェストウエンスキー提督の艦隊を強化するために、政府は第三艦隊の派遣の準備に取り掛かったという確報である。
それにしても、増援艦隊に編入を予定されている艦として発表されたものを見れば、がっかりするばかりである。
千八百八十九年建造の老朽戦艦ニコライ一世を筆頭に、海防艦アプラクシン、セニャーウィン、ウシャコフといずれも四千二百トン級の旧式艦である。
加えて千八百八十三年建造のモノマフの五隻である。
アリョールの士官たちも、これを知って、「このような非力な艦が加われば、かえって第二艦隊の戦力は低下するばかりである」
と、嘆いた。
黒海艦隊の新鋭戦艦や巡洋艦については、まるで触れてないではないか。
ロジェストウエンスキー提督が、大憤慨を発して司令官室に閉じこもったのも無理はなかった。

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ツシマ沖の海戦(その四百一) The Battle of Tsushima
2007-08-11 Sat 00:00
三十一日の演習には、巡洋艦ジェムチュグと駆逐艦を停泊地警備のために残しただけで、全艦隊が参加した。
先ず、哨戒部隊としてスベトラーナ、ウラル等の巡洋艦が外海に出たのを見すまして、第一、第二戦艦部隊の順序で抜錨した。
後衛にはアルマーズ、ドンスコイ等の巡洋艦部隊がついた。
参加艦は十五隻である。
十一時、小雨とともに海上には靄がかかってきた。
十二時になると、艦隊は、それまでの縦列から横列へと体形を変え、標的を投下すると、警報が鳴り渡った。
距離二十鏈長で標的に向かって射撃が開始された。
スワロフとオスラビアの両旗艦が最初に発砲した。
この演習ではアリョールは、十二インチ砲八発、六インチ砲三十七発、三インチ砲三十四発、四十七ミリ砲百十二発を発射した。
靄が深く、着弾の視認が困難であったが、時折、標的の至近距離に落下したと思えることがあった。
ところが、訓練が終了して標的を引き上げてみると着弾の跡は一つも見られなかった。
皮肉なことに今回も、艦隊の中の旧式の砲を備えた従来艦の方が成績はよかった。
帰途、ボロジノの速力が急に低下した。
汽罐からの蒸気漏れで圧力が低下したのだ。
ボロジノは速力低下の警報を出さなかったため、後続しているアリョールは危うく衝突するところであった。
アリョールは急激に転舵して、すり抜けボロジノの前へ出た。
この様子を望見していた提督は、即座にボロジノ乗組み士官全員に一週間の上陸禁止を命じた。
アリョールの速力も十一ノット半がせいぜいというところだった。
機関の回転数は八十五である。
三千トンの過重と船底に付着した海藻や牡蠣のせいである。
クロンシュタット軍港で行った試運転では、十八ノットを記録している同艦である。

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ツシマ沖の海戦(その四百) The Battle of Tsushima
2007-08-10 Fri 00:06
提督の苦情は、小口径砲の砲撃結果にも及んでいる。
「七十五ミリ砲の砲撃も同様に、甚だしく成績不良なり。おそらく練習に際し、大凡の見当にて標的をねらい、正確を期せざる悪癖のためならん。駆逐艦の襲撃撃退の重任を帯びたる四十七ミリ砲の射撃に到っては、思うも恥ずかしき成績なり。われわれが毎夜人員をこの砲側に当番せしむるはこの目的があるためなるも、昼間において、全艦隊をもってしてもかの駆逐艦を表示せる標的に、一個の穴をも穿ち得ざる状態なり。しかも、日本駆逐艦と異なる点は、標的は静止したるままなる点のみなり。」
この命令四十二号は、アリョールの士官たちの間でも話題の種となった。
ある大尉は、「そもそも提督のせいでなく、一体誰のせいなんだい?
この艦隊を編成したのは提督だぜ。われわれの戦闘上の欠点は全部、本国にいたとき既に分かっていたはずだ」
他の大尉も、それに同意し、更に悪態を付け加えた。
「司令長官は砲弾一個を惜しがっているが、艦に積んだまま海底に沈んだら余計もったいないじゃないか」
しかし、ウラジミール・コスチェンコは素直に反省している。
「第一回目の訓練の成績があまりにも恥ずべきものであったので侮蔑に満ちた提督の訓令が達せられた。
文句は簡単であるが、まさに痛いところを突いている。
艦隊は今死闘の場に赴こうとしているのに射撃も機動もろくにできない。まさに肝に銘ずべきである」
一月三十一日、艦隊は二度目の訓練のため外海に出た。
前回の訓練では、提督は「縦列より横列へ左八ポイント一斉転回」の信号旗を掲げた。
ところが、方向転回後のそれはとても艦列とはいえないものであった。
まるで各方向へと逃げまどう羊の群れを連想させる有様であった。
したがって、射撃が始まると、まるで戦闘準備ができていないことをさらけ出してしまった。
各砲塔や防御砲台への司令塔からの射撃距離の伝達が,適時に行われなかった。
そのため、砲発射の秩序などあったものではなかった。
アリョールの後部六インチ砲塔では、距離盤には十一鏈長と出たので、それに応ずる仰角で発射したところ、実際の距離はなんと二十四鏈長であった。
最も悲惨を極めたのは、射撃指揮であった。
司令塔から砲術長が射撃命令を出し、これを受けた砲塔や防御砲台が発射する、これが通常のシステムであるが、実際にはとてもそのようにはいかなかった。
命令が砲塔に届かなかったり、届いてもそのときは何かの理由で発射準備ができなったりしたのだ。

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ツシマ沖の海戦(その三百九十九) The Battle of Tsushima
2007-08-09 Thu 00:00
最初の沖合射撃訓練の翌日、提督は命令第四十二号の中で、自己の艦隊の技量を罵倒した。
「昨日、戦艦および巡洋艦の出動により、四か月に渡る航海は何ら得るところなかりしこと判明せり。
抜錨せるは一時頃なり。スワロフにおいて、錆と埃の為め、揚錨機の運転不可能なりしが原因なり。
正午に到らば信号によりて、全艦急激に八度の針路を変じ、横陣を作り、標的投下のため機関を停止する旨、既に通達し置けり。
のみならず、各艦長は周章して単縦陣を作らず、関係なき艦と並び接触せり。
第一隊において、最も甚だしき注意を受けたるはボロジノおよびアリョールの艦長なり。
三隻よりなる第二隊は、スワロフに隣せるナワリンのみ命令を実行せしも、これ一時のみなり。
オスラビアおよびナヒモフは各自自由行動をとり、巡洋艦に到っては陣形をとらんとも敢えてせず。
ドンスコイの如き、両艦の距離五十五錨鎖に及べり。」
提督は、自己の艦隊が初歩的な艦隊運動すらできなかったことを嘆いている。
そして、続けて、その射撃技術に関して言を及ぼしている。
「昨日の艦隊射撃演習を見るに、驚くべき不成績にして、吾甚だ遺憾を覚ゆ。
アウローラを除き、教練計画実施の規定を忠実に守りし艦の更になかりしこと判明せり。
貴重なる十二インチ砲の砲弾は、些かの考慮も払われず、徒に散布せる結果に終われり。
数分の間をおきて発射せし砲を見受けしが、その数分間において、照尺距離と針身の角度と、風位に、甚だしき変化を生ずるや必せり。
砲指揮者は如何なる射撃条件に基づき、貴重なる砲弾を徒に海中に投棄せるものなりや?」
大艦隊の総司令官が、個々の射撃指揮者の射撃諸元の算定にまで口出しているのは、奇妙であるが、提督の憤慨と落胆の大きさは推量できる。


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ツシマ沖の海戦(その三百九十八) The Battle of Tsushima
2007-08-08 Wed 00:00
帰港してみると、ドイツの給炭船がもたらした重大なニュースが艦隊の全員を驚かせた。
それはフランス紙の最近号が伝える本国で発生した重大事件の詳報であった。
世論を重視し、自由主義的な立場をとる内務大臣のスペトポルク・ミルスキーが辞任を強要され、再びペテルブルグで反動派が政治権力を奪取した。これに反発する労働者が各工場で大規模な暴動を起こす気配があるというのである。
労働者の大群が皇帝が滞在中の冬宮に向けて示威行進を起こした。
これに向けて軍隊は、ロシア皇帝の命を受けて発砲した。
フランス紙によると、この混乱に巻き込まれてペテルブルグでは一千人以上が殺され、二千人を超える負傷者が出たというのだ。
ウラジール・コスチェンコは、遙かなる祖国で今このような驚天動地の事件が勃発した、と驚きを隠しえなかったかの如く記録している。
これが、一千九百五年一月九日(露歴・ グレゴリオ暦では一月二十二日)、ロシア帝国の当時の首都サンクトペテルブルグで行われた労働者による冬宮への示威行進に対し、政府当局が弾圧を加えた事件として知られる、いわゆる「血の日曜日」事件である。
ノシベの艦隊の内部も決して平穏ではなかった。
一月二十二日、ロジェストウエンスキー提督は、全艦隊に向けて訓令を発した。
「巡洋艦ナヒモフにおいて、ロシア皇帝の忠良なる下僕の間に日本の手先がいることが発覚した。彼らはいかがわしい風評をまいて乗組員に暴動を起こそうと図った。犯人は法に則り厳重に処罰する」
この艦では、クロンシュタット出港以来、水兵は乾パンばかりが支給されて、柔らかい焼きたてのパンが食卓に出されたことがなかった。
日頃から艦長に不満を抱いていた乗員は甲板上に列を作って,艦長に改善要求を突きつけた。
驚いた艦長が衛兵を呼集したが、彼らも応じなかった、という「事件」である。

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ツシマ沖の海戦(その三百九十七) The Battle of Tsushima
2007-08-07 Tue 00:00
一月二十六日午前八時、艦隊は十八日間の眠りから覚めて、抜錨した。
射撃訓練のためにノシベを離れ、外海に出たのである。
参加したのは、第一戦艦部隊四隻と第二部隊のオスラビア、ナワリン、ナヒモフ、それに加えて巡洋艦部隊からアルマーズ、アウロラ、ドンスコイが加わった。
抜錨の際に、ナヒモフから一名の水兵が海面へ転落した。
ナヒモフは艦旗を降ろすと号砲を鳴らし艦列から離れていった。
幸運にも水兵は救助された。
艦隊はマダガスカルの岸から二十マイルの公海に出た。
提督はアレクサンドル、アリョール、ナワリン、ナヒモフに命じて、赤色に着色された浮遊標的を海上に設置させた。
そして、十隻からなる艦列に、標的を中心にして六乃至三十鏈長の距離を保ち円を描いて航走させた。
因みに、一鏈長とは十分の一マイルである。
最初にオスラビアが試射した。
その砲弾は標的の至近距離に落下した。
オスラビアのマストに距離を現す信号旗が揚がった。
それに応じて他の艦が六インチ砲で初弾を送った。
次いで、左舷の全砲火が連続発射に移った。
アリョールはこの射撃訓練で十二インチ砲塔から六発、六インチ砲塔から三十発の実弾を発射した。
初めての射撃訓練の成績は惨憺たるものであった。
ただ、救いは十二インチ砲塔が比較的よかったことである。
艦隊は、標的の周りを五回巡航した。
好天で波も穏やかな、絶好のコンデションでありながら、主力艦の成績は散々であった。
皮肉なことに好成績をあげたのは、オスラビア、ナワリン等の旧型艦であった。
そのあと、数回の機動演習を行い、ノシベに帰港したのは午後六時を過ぎていた。
帰航の際に、アリョールでは二十汽罐のうち十二を働かせたのにもかかわらず、わずか十一ノットしか出せず、他艦にーより遅れて帰る破目になった。
全て石炭の質の悪さのせいである。

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ツシマ沖の海戦(その三百九十六) The Battle of Tsushima
2007-08-06 Mon 00:00
マダガスカル島で、欧米人が生活できるのは三年間が限度である、といわれている。
将兵は毎日五時に起床し、日没まで訓練や作業に従事した。
遠い本国においては、ようやく厚い氷を割って春の水が湧き出している頃、彼らは酷暑に苛まれながらマダガスカルの漁港にいた。
雨期に入ると天候は急変し、厚い雲に覆われた空から細かい雨が降ってきた。
夜になると突風を伴った豪雨が襲来した。
太陽は顔を見せないが、蒸し風呂のような暑さは続いた。
一月二十五日、二週間もの長い停泊ののち、明日艦隊が機動訓練に出動することになった。
細雨が絶え間なく降っている。
時折、山の方で雷が轟いたかとおもうと、大雨が沛然として海面を叩いた。
ロジェストウエンスキー提督は、士官及び乗組員に日本海軍がどのような邀撃態勢をとっているかについて詳しい通知を発した。
それによると、日本海軍はスンダ列島の海峡に機雷を敷設中であるという。
また、ロシア艦隊が寄港するとみられる港湾を探索し、ロシア艦隊の給炭船を捕獲しようと企んでいる。
沿岸の要所には見張所を設けている。
国内では潜水艦の建造に励んでいる、という。
商船に仮装した義勇艦隊がマダガスカル海域に出没そしているのが、フランス海軍によって確認され、日本のスバイがノシベにもいる、という噂がある、等である。
提督は、警戒見張任務を特に注意するよう命令した。
各艦長には、「搭載水雷艇による哨戒には未経験者の搭乗を禁じ、通過船舶には全て追跡し、疑わしいものには停船を命じ捜索すること、日本のスパイが艦隊の物資調達業者の中に潜り込んでいるという噂があるため、部外者の乗艦を厳禁すること」と指令し、海面監視の障害になるので空き箱、空き樽の投棄を禁止した。

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ツシマ沖の海戦(その三百九十五) The Battle of Tsushima
2007-08-05 Sun 13:57
これを聞きつけたアリョールの口さがない水兵たちは悪口を並べ立てた。
「松葉杖艦隊」
「海底行艦隊」
それでも、彼らは心中ではネボガトフの艦隊が日本艦隊の砲弾をいくらか引き受けてくるのではないか、と考えていた。
ロシア海軍の軍艦のうち、最新鋭のものはことごとく旅順艦隊に配属されていた。
ロジェストウエンスキー提督が、第二太平洋艦隊を編成したとき、軍艦選びに苦心した。
その際に、捨て残した老朽艦を集めて、ロシア海軍省は第三太平洋艦隊と名づけ、「貴官に合流させる」と伝えてきたのである。
ロジェストウエンスキー提督が大憤慨を発して、司令官室に閉じこもってしまったのも無理はなかった。
彼は参謀長クロング大佐を呼びつけ、本国に対して打電させた。
彼は先ず述べた。
「私が現在保有している艦隊をもっては、海上勢力を挽回する希望はない」
旅順要塞と旅順艦隊を失った今となれば、これがロジェストウエンスキーの本音であったろう。
次いで、ネボガトフの艦隊について触れた。
「老朽艦、建造不良の諸艦によって編成されている艦隊が増援にやって来ても、わが艦隊としては負担が増すばかりで歓迎できない」
要するに、第三太平洋艦隊は足手まといになるばかりである、と告げたのである。
さらに、付け加えて、自らの決心を述べた。
「東郷の艦隊との決戦を避け、一路ウラジォストックへ驀進し、そこを根拠地にしたて敵の海上交通を妨害する」
そのためには、低速な老朽艦隊を道連れにしていては、ウラジオストックへの驀進が不可能になる。
ところが、本国政府はロジェストウエンスキー提督の懇請と意見具申を無視した。
ロシア海軍省は、ただ「ネボガトフ少将の第三艦隊はリバウ港を出発せり」と、伝えてきただけであった。
この報に接して、ロジェストウエンスキーは病気を理由に、自らの解任を本国に申し出た。
無論、それは許可されることはなかった。
その結果、彼の艦隊はマダガスカルのノシベに虚しく二か月も留まることとなった。

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ツシマ沖の海戦(その三百九十四) The Battle of Tsushima
2007-08-04 Sat 00:00
バルチック艦隊が、このノシベの地に二か月も足止めされた理由の一つとして、石炭の問題がある。
当時の各国の海軍は良質な無煙炭に固執していた。
そそれが無ければ、機敏な艦隊運動は不可能である。
無論。ロシア海軍省もそれは知っていた。
ロシア政府は、ドイツのハンブルグ・アメリカン会社と、極東への回送中は無煙炭による海上補給を契約していた。
ところが、その無煙炭は英国から購入しなければならない。
英国は、日英同盟を盾にして、ドイツの会社に無煙炭を売ることを拒否してきたのだ。
窮したハンブルグ・アメリカン社は、自国産の有煙炭をバルチック艦隊へ供給した。
火力に劣る有煙炭では、艦の速力は上がらない。
ロシア政府はドイツ給炭会社を大いに詰ったが、英国の妨害によりうまく事は運ばなかった。
しかし、ロシア政府は諦めなかった。
なんとか事態の打開を図ろうと、その間、ロジェストウエンスキーの艦隊をノシペに留め置いたのである。
もう一つの理由は既に述べたように、ロシア海軍省が、彼の艦隊の増強を企てたことである。
それは、更に一艦隊を編成して、ノシベにいるロジェストウエンスキー提督にプレゼントしようとする計画であった。
問題は、その内容にあった・
現在ロシア本国に残留している老朽艦をかき集めて、それは編成される予定であった。
例えば、戦艦ニコライ一世がそれであった。
同艦は、排水量九千六百七十トン、速力十五ノットの旧式艦であった。
艦齢は十四年を超えている。
やがて、その案は現実のものとなり、ノシベにいるロジェストウエンスキー中将に知らせが届いた。
リバウで編成されつつある、その艦隊は太平洋第三艦隊と名付けられ司令官としてネボガトフ少将が任命された。
その中には、前記のニコライ一世の他に、海防艦ゲネラル・アプラクシン、同アドミラル・セニャーウィン、同アドミラル・ウシャーコフ、一等巡洋艦ウラジミル・モノマフが含まれている。

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