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ツシマ沖の海戦(その三百九十) The Battle of Tsushima
2007-07-31 Tue 00:00
では、本会戦の総括に移りたい。
三月三日より本格化した、この一連の戦闘において、日本軍の損害は大きかった。
奉天会戦に参加した日本軍の兵力総数(戦闘人員数)は、二十四万九千八百人、死傷者は七万二十八人である。
一方、ロシア軍はその戦闘人員約三十万九千六百人、死傷者六万九十三人、行方不明七千五百三十八人、捕虜となった者は二万一千七百九十二人である。
ところで、日露戦争当時の我が国の男子人口は約二千三百万人であり、そのうち兵役人口は約八百万人である。
日露戦争の開戦以来の戦闘参加人員が約二百八万人と算出されているので、実に動員数は兵役人口の四分の一に達していることになる。
いうまでもなく、この兵役人口は即国内での労働人口でもある。
既に昨年の十月、予備、後備の軍籍にある者全てを動員しても兵力不足が見込まれていた。
招集範囲が広げられ、教師、技師等にもそれが及んだ。
鉄道職員についても、輸送・保安の面で甚だ差し支えある者を除いて、招集の対象とされた。
社会生活に必要な最低人員を残して、殆どの壮丁は戦場へと送られることとなったのである。
そのため、体格の面でも基準が落とされ、第一線要員ではない輜重輸卒、看護卒などの身長基準は、五尺に下げられた。
しかし、日本陸軍が最も頭を悩ませたのは、将校、準士官の欠乏であった。
陸軍省も日露戦争においては大規模戦が行われることを予想し、将校の速成策を採用していた。
開戦二か月後の明治三十七年四月のことである。
陸軍省は、士官学校の修業年限を概ね一箇年に短縮し、その代りに選抜基準を厳しくした。
では、ロシア側の事情はといえば、三月十日夜、ロシア皇帝ニコライ二世は、極東からの敗報を受けて、「また極東から凶報が来た。クロパトキンが三方から敵に囲まれてその圧迫に耐え切れず、鉄嶺方面へ退却したと言う。何と言う失敗であることよ!」と日記の一頁を埋めた。
三月十二日開かれた御前会議では、陸相サハロフ大将が、「陸軍は満州に歩兵約六十万人、騎兵約三万二千人、砲二千門を送る用意がある。ほかに約六百七十三億キロの物資・資材の輸送も可能である」と豪語した。

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ツシマ沖の海戦(その三百八十九) The Battle of Tsushima
2007-07-30 Mon 00:01
秋山の支隊は、乃木司令官の指示通り鉄嶺の北方へ進出したが、そこには最早ロシア軍の姿はなかった。
鉄嶺を占領した日本軍は、更にロシア軍を追って北上した。
三月十九日に至り、野津軍の一部の部隊が開原に進出した。
開原は、鉄嶺の北東約五十キロに位置し、古くからの物資集積地であり、明代には城壁を巡らせた開原城が築かれている。
翌二十日、秋山支隊も開原に入った。
秋山少将は、開原を起点として盛んに各地に斥候を派遣して、ロシア軍の動静を探らせた。
たとえば、開原の北西約三十キロの昌図や吉林までへも斥候隊を出したのである。
二十一日になると、騎兵第十三連隊第三中隊が昌図を占領した。
秋山少将も支隊の主力を率いて昌図城に入城した。
翌二十二日のことである。
この日、乃木軍主力は法庫門に進出した。
法庫門は鉄嶺の北西約四十五キロに位置している人口5万の町である。
日本軍の追撃は、ここで息切れした。
兵力は欠乏し、弾薬も殆ど尽きかかっていた。
乃木の第三軍は、ここ法庫門に司令部を移し、そのまま終戦を迎えることになる。
余談となるが、ここに乃木大将が法庫門陣中で作ったと伝えられている漢詩を掲げておく。
東西南北 幾山河
春夏秋冬 月又花
征戰歳餘 人馬老
壯心尚是 不思家
満州雑吟と題されたこの詩の意は、次のようなものであろう。
満洲は東西南北には幾つかの山もあり河もあって、春夏秋冬には花も咲き、よき月も眺められる時期がある。
已に征戦も一年余りも過ぎて、兵隊も軍馬も疲れてはいる。
しかし兵隊の勇壮な心は尚衰えることなく、自分の家郷のことを思うことはない。

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ツシマ沖の海戦(その三百八十八) The Battle of Tsushima
2007-07-29 Sun 00:00
十一日早朝の第三軍命令に応じた秋山支隊は、十二、十三、十四日と順調に北進行を続けた。
ところが、三月十五日になって、「第九師団の平佐支隊の運動にしもない、遼河右岸に移り、鉄嶺の背後に進出すべし」という軍命令が追いかけてきた。
遼河は、河北省、内蒙古、吉林省、遼寧省を流れ、渤海に注ぐ大河である。本編にも幾度となく登場した渾河は、この遼河の最大の支流である。
因みに、遼河は鉄嶺の西を南西に流れているため、その右岸と言えば西側になる。
この時期、鉄麗にいるクロパトキン大将は、既に同地を捨て、北北東約百三十キロの四平街へ撤退する決心を固めていた。
日本軍の猛追撃が、クロバトキン大将の鉄嶺固守の決心を鈍らせたのである。
三月十五日の夜、ロシア軍は糧食に火をつけ、建物を焼いた上で鉄嶺を撤退していった。
ここで、少し鉄嶺について触れておきたい。
鉄嶺は、奉天から北へ75kmの位置にあり、東部は山が多く、樹林が密集している。また、中部は平原、西部と北部は丘陵と草原から構成されている地形である。地域内には遼河の支流が多数流れている。
鉄麗は、この奉天会戦に先立ち、ロシア軍が北方へ退却する事態を想定して、その退却援護陣地を半永久的規模で築いておいた地点である。
鉄麗は狭隘地であり、追撃軍は必ず通過しなければならない場所である。
ロシア軍は昨年の春から初冬にかけて大規模な工事を完成しており、優に二個軍団を収容することができた。
その鉄麗をクロバトキン大将は、呆気なく見捨てたのである。
十六日午前零時頃、黒木軍に所属する仙台第二師団が鉄嶺城内に入った。
続いて、梅沢道治少将の率いる近衛後備混成旅団が鉄嶺駅を占領した。
ところで、ここに「ある歩兵の日露戦争従軍日記」なる書物がある。
著者は茂沢祐作なる人物で、平成十七年草思社から出版されている。
茂沢氏は、明治三十五年新発田歩兵第十六連隊に入隊し、開戦とともに戦地に出征している。
本書については以前にも一度引用させていただいているが、今回は日本軍が占領直後の鉄嶺の様子が描かれている部分をご紹介したい。
負傷して一度脱落した著者が、傷もやや癒え、原隊を追及する途中で鉄嶺の街に入る場面である。
「市に近づくにつれ軌道は左に、正面には城壁、右の高地には塔が見える。まず停車場より市街に入り城内に入った。新市街の過半焼失もしくは破壊され、見る影もないが、目新しいのは西洋風の家(兵舎・商店)と停車場である。市街は人口も戸数も鳳凰城より多く、賑やかというよりも騒々しいのである。城内には例の塔がある」
結局、原隊の位置を確かめることのできなかった茂沢上等卒は、鉄嶺を離れ、郊外の七里屯という部落で一夜を明かすわけであるが、その付近の敵の防御工事と退却の際の有様に驚いている。
彼は、また、鉄嶺停車場付近の乱雑さを見て、いかに退却に混雑したかを推察している。
そして、防御工事は半永久的に出来ているにもかかわらず、さしたる抵抗もしなかったのは、多分命令が行き渡らなかったのであろう、と結論付けている。


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ツシマ沖の海戦(その三百八十七) The Battle of Tsushima
2007-07-28 Sat 00:00
投降するロシア兵は疲労困憊していた。
彼らは例外なく銃を置くとほっとしたような表情を浮かべた。
ただ、喉の渇きを訴える者が多く、一椀の白湯を与えると涙を流して感謝する敗残兵もいた。
午後九時、日本満州軍総司令部は、次のような命令を示達した。
各軍の光輝ある戦闘に依り、遂に敵の主力を撃砕し、以て敵の本拠地たる奉天及びその付近の陣地を攻略し得たり。
予は今より隊伍を整頓し、戦力を回復せんとす。
この停止命令については、総司令部内にも異論が出でいたが、大山総司令官の決断によって発令されたという経緯がある。
大山元帥は、敵の敗退縦列を目前にしながら突進しない各部隊の戦況報告に接して、疲労が極限に達している将兵の実情を思いやったのである。
午後十一時、朱爾屯のロシア第八軍団長ムイロフ中将は、すでに南方にはロシア軍部隊は存在しないと、判断を下し、同地より退却を開始した。
これをもって、奉天会戦の終幕を見ることになる。
これより少し前、例の鉄道線路沿いの窪地に身を潜めていた敗兵の一部は北進を始めていた。
彼らは、いつ日本軍の前線に迷い込むのかとの不安に苛まれながら、畦道が並ぶ平坦地の暗闇の中を歩き続けた。
兵たちは周囲を日本兵に取り囲まれているという恐怖感から、急に別の一団に出会うと、敵味方の別を確かめることなく発砲した。
そして、ロシア語の悲鳴を聞いてから、初めて味方であると認識する有様であった。
では、その後の会戦後始末とでもいうべき、日本軍の行動を簡単に追って見よう。
翌十一日、午前二時三十分頃、秋山好古少将は乃木第三軍司令官から次の命令を受けた。
「秋山支隊は主力をもって退却する敵を鉄嶺方面に追撃すべし」
秋山支隊は、以後三日間北進を続けた。
時間が遡るが、十日の午前六時、乃木司令官から「奉天北方の石山子方面に挺進し、敵の退路を遮断すべし」という命令を受領した秋山支隊は、大新屯から東進した。
午前十時四十分頃、蘭西屯付近で前方にロシア騎兵隊の一群が退却していくのが遠望できた。
兵力は約一個連隊と推算できる。
前衛司令官豊辺大佐は、これに砲撃を加え、展開攻撃に移った。
ところが、敵は見る見るうちに増勢して、逆に包囲されることとなった。
このままでは敵の重囲に陥ってしまうことは火を見るより明らかである。
秋山少将は躊躇することなく、部隊を退却させ、大新屯付近へ引き返させた。
またもや、長蛇を逸したのである。

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ツシマ沖の海戦(その三百八十六) The Battle of Tsushima
2007-07-27 Fri 00:00
ところが、西二台子の北に当たる前魚鱗堡に布陣していた門司支隊の正面にロシア軍の一隊が突撃してきた。
午後八時三十分頃のことである。
門司支隊とは、門司和太郎大佐が率いる後備第十旅団の一部であるが、南方から襲撃してきた敵の主力は、大韓屯から後退してきたマクシモフスキー隊であった。
同隊は、午後六時頃、東瓦子窑部落の東側に当たる鉄道線路脇の、例の窪地に到着したが、窪地は敗残兵で充満していたため、指揮官である第十連隊長マクシモフスキー大佐は、鉄嶺街道に出ることを決意した。
窪地にいた第十九連隊の残留兵も同行し、マクシモフスキー隊は鉄道堤を越えて東へと進んだ。
午後七時三十分頃、二台子北方の鉄嶺街道沿いの小部落に到着したとき、大佐は部隊の幹部を集めて、会議を開催した。
同隊が通過してきた地域には,遺棄された車輌や資材が散乱し、彷徨うロシア敗残兵が疑心暗鬼にかられて味方射を繰り返していた。
それに。日本軍も到る所に進出を果たしている気配である。
このまま退却するか、それとも留まって一戦を交えるか、大佐は各隊長の忌憚のない意見を求めたのである。
結局、大勢は鉄嶺行きを希望し、大佐も北行を決意した。
前進を再開した同隊には、途中でガネンフェルト隊の一部が加わり、約二千の兵力なった。
それが、門司支隊の前線と接触したのである。
報告を受けた門司大佐は、早速、投降勧告を試みさせたが、ガネンフェルト隊は肯んじなかった。
銃砲撃と手榴弾の投擲による戦闘は激化した。
門司大佐は、情況を容易ならざるものと、認識し、大窪南方にいた後備第十連隊に急行を命じた。
後魚鱗堡南方に位置していた第六師団第十三連隊からも、第一、第三大隊が急派された。
マクシモフスキー隊は、軍鼓を打ちならしながら突撃を繰り返してきたが,ことごとく日本軍の機銃火の前に敗退せざるを得なかった。
その後の同隊の運命については述べれば、負傷者を収容して南方に下ったが、次いで東方に転じ、灯火のある民家の間を抜け、荒野に出ると磁石に頼りながら東進した。
翌十一日午後三時頃、力尽き、三窪付近において日本近衛師団に降伏した。
ロシア側の記録によると、同隊のこの事情は「全滅の悲劇」として特記されている。
マクシモフスキー隊の敗退は、午後九時三十分頃であったが、その後は大きな戦闘はなかった。
ただ、夜を徹してロシア兵が三々五々投降する者が後を絶たなかった。
この他には、小集団で突撃してくる者、近距離より射撃してくる者等々の騒乱が天明を見るまで続いた。

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ツシマ沖の海戦(その三百八十五) The Battle of Tsushima
2007-07-26 Thu 00:00
直ちに北進を開始した野津軍の進撃振りは凄まじかった。
奉天の東方から突進して、各地でロシア軍の抵抗を排除しながら、夕刻には魚鱗堡付近に達し、ロシア軍の退路を遮断し、奥軍、乃木軍と連携して奉天を包囲することとなる。
野津軍の中でも、乃木の第三軍に最も近い位置にいたのは、大久保春野中将の率いる第六師団であった。
第六師団は熊本に師団司令部を置き、兵は南九州から徴募した日本最強師団と評されていた。
同師団の前衛部隊は、十日の朝、毛家屯の北方の高地に登り、奉天城を望むこととなる。
第六師団は、そのまま高地を駆け下り、その半ばをもって左旋回しながら北走するロシア退却軍の頭部を抑え、大久保中将が直卒する半ばをもって鉄道線路へ直進した。
日没後に至り、奉天付近の戦場にはようやく静寂が訪れたが、それでも各所では暫く戦闘が続いた。
第六師団左翼の徒歩砲兵第四連隊を攻撃したガネンフェルト隊は、増援部隊を迎えた日本軍により撃退された。
時刻は午後六時三十分である。
ガネンフェルト隊の一部は、この時投降し、西台子東方の高地にいた第六師団司令部に連行された。
そこには、西台子南方の森林地帯での戦闘によって捕虜となったロシア兵約四百名がいた。
ところが、先着の捕虜集団とガネンフェルト隊の兵士との間で乱闘騒ぎが起こった。
争闘の原因は、泥酔している先着組の捕虜のだらしなさを詰ったガネンフェルト隊員の言動が切っ掛けとなったのである。
この喧嘩は意外な方向に発展した。
止めに入った日本軍警備兵力の少数さに気づいた捕虜が、喧嘩をやめ第六師団司令部を攻撃したのである。
師団長大久保春野中将は、付近を西進中の後備第二十四連隊に伝令を走らせ、応援を求めた。
その結果、ようやく午後七時四十分頃、反抗捕虜集団を北方へ潰走させた。

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ツシマ沖の海戦(その三百八十四) The Battle of Tsushima
2007-07-25 Wed 00:00
山崎中佐は、煩そうに手を振って、「あっちへ行け」と合図をした。
そして、清国の巡警を呼び寄せ、ロシア兵たちの武装解除をさせた。
後備第五十一連隊と第五連隊第三大隊は、更に柳條湖に向って進んだが、その途中で大北辺門にいったん集結したところを、ロシア部隊と誤認されて、先着していた第三十七連隊第二大隊に「土民情報」として報告されたのである。

一方、日本満州軍総司令部は、午後六時、第一軍に通報を行った。
「我が包囲攻撃は今や全く成功し、第四軍の第六師団は既に奉天を占領せり」
誤報である。
今まで、縷々述べてきたように、第六師団による奉天占領の事実はない。
この日、総司令部に届く各軍の報告は断片的で、錯綜の限りを尽くした。
ここで余談になるが、「坂の上の雲」では、第六師団が奉天城一番乗りをしたと記されている。
それは、ともかくとして総司令部は、東京にも報告した。
参謀次長長岡外史少将は、その旨を天皇に上奏した。
大本営は,その後、満州軍総司令部発信の電報を公表した。
その内容は、次のようなものである。
「今十日午前十時、奉天を占領せり。数日来の包囲攻撃は全く其目的を達し、今や奉天付近各所に於て非常の激戦中にして、捕虜並兵器、弾薬、糧秣等諸軍需品の鹵獲は極めて多大なるも、未だ此調査に遑あらず」
各新聞が号外を発行したことはいうまでもない。
東京をはじめとして、全国の都市部の街頭では号外売りの叫び声と鈴音が引き渡った。
しかし、この電報にも誤りがある。
それは時刻である。
午前十時には、奉天には日本軍の一兵たりとも進出はしていない。
では、次に電報にいう「今や奉天付近各所に於いて非常な激戦中」とは具体的には如何なる戦闘を指しているのであろうか。
重複を恐れず、ここで少々触れておきたい。
既述したようにこの日、三月十日午前三時三十分、第四軍司令官野津大将は、「第四軍は速やかに奉天北方へ進出すべし」という総司令部発の電命を受けた。

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ツシマ沖の海戦(その三百八十三) The Battle of Tsushima
2007-07-24 Tue 00:00
午後四時ごろ、それまで待機していた第四師団第三十七連隊第二大隊が、奉天停車場を出発すると、それと入れ違いにように立見中将の指令を受けた後備第五十一連隊が同停車場に到着した。
連隊は国旗を振りながら燃え盛る停車場地区へ入ってきた。
その二十分後、第五連隊第三大隊が追及してきて合流を果たした。
両連隊は、合同して付近の赤十字病院に向かった。
後備五十一連隊長山崎菅雄中佐が、日本軍負傷兵も収容されていると、耳にしていたからである。
山崎中佐が入っていくと、その病院には日本軍傷兵約百人とロシア軍負傷者約七十人が収容されていた。
残留していたロシア軍医と看護婦が、彼らの治療にあたっていた。
山崎中佐が病室に顔を出すと、直ぐに声をあげて泣き出す者、万歳を叫ぶ者ありで、大変な騒ぎが起こった。
なおも、寝台から身を起す者、「貴官はどなたでありますか」と、取りすがってくる者,「こんな嬉しいことは一生に無い」と大声をあげる者等で病室は騒然となった。
そこへ一人の参謀肩章を吊るした将校が駆け込んできた。
後続してきた第四軍参謀大竹沢冶大尉であった。
大尉は、敬礼ももどかしげに、慌ただしく「大北辺門占領を急げ」という師団命令を伝えた。
両連隊は、その一部を急行させ、主力も続いて大西辺門から城内に進入すべく道を急いだ。
先発した第五連隊第三大隊第十二中隊が大西辺門を潜ったのは午後五時十分であった。
したがって、河村義男少佐が率いる第三十七連隊第二大隊より遅れること僅か十分であった。
第五連隊第十二中隊は、大北辺門に至ると、既に第三十七連隊が掲げた日章旗の側に、同じく日章旗を翻した。
続行する後備第五十一連隊と第五連隊第三大隊が入城したときは既に城内では日本軍歓迎の準備が整っていた。
小西辺門では清国兵が整列して出迎えていた。
沿道にも市民が立ち並んで好奇の眼差しを送ってきた。
手には早くも急造の日の丸を掲げている者すら見受けられた。
街頭ではまだあちこちに敗残のロシア兵が彷徨っていたが、日本軍に出会うと皆挙手の敬礼を行った。
指揮官である山崎中佐には、駆け寄ってきて手にキスをしようとする者が相次いだ。

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ツシマ沖の海戦(その三百八十二) The Battle of Tsushima
2007-07-23 Mon 00:00
午後四時、第七旅団長須永少将は、奉天停車場付近で待機する第三十七連隊第二大隊に奉天城進出を命じた。
同大隊は、午後五時ごろ、大西辺門から入城し、各門に日章旗を掲げた。
そして、城内中央に進出すると、大隊長河村義男少佐は奉天将軍増祺に面会するため奉天将軍府に向った。
河村少佐は、奉天将軍府の一室で増祺に向って、「城内の敵敗残兵掃討の要あり。其の際市街戦発起の可能性あれば、我軍隊を以て城内の宮殿及び官衙を保護すべし」と、提案した。
婉曲な奉天占領の申し出である。
しかし、将軍増祺は微笑して即座に応諾した。
「俄の暴兵既に去る。軍紀粛正の倭軍を迎えて良民の安寧を保つは、喜福なり」
因みに、俄はロシアであり、倭は日本を指す。
河村少佐は、その回答を得るや直ちに宮殿と主要な官庁にそれぞれ兵一分隊を
派遣し警備につかせた。
ところが、この時、少佐の手元に意外な情報が届いてきた。
「敵兵一万、城内東北隅に進入し、又其の敗残兵三千北門付近にあり」
少佐は首を傾げた。
俄かには信じがたい内容である。
出所は土民の情報であるという。
将軍増祺は、ロシア兵は去った、と告げた。
しかし、確認は必要である。
少佐は斥候を城内の東と北へ走らせた。
間もなく、事実が明らかとなった。
東北隅の一万は、既に退去したガネンフェルト隊についてのものであり、北門の三千とは、意外なことに日本軍を誤認したものであった。
この時期、奉天城内には第八師団の一部が進出してきていたのだ。
先頭入城の争いが起こっていたのである。
第八師団の進撃目標は奉天北西の前塔湾であったが、師団長立見尚文中将は、第四師団が奉天一番乗りを画策していると聞いて、俄然対抗心を湧きたせた。
立見中将は、第四旅団長依田広太郎少将に対し、主力をもって奉天北門より北陵東南にわたる間の占領を下令した。
受命した依田少将は、午後三時過ぎ、指揮下の第五連隊に同命令を伝達した。
これに応じて、第五連隊第三大隊は奉天へ進出した。

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ツシマ沖の海戦(その三百八十一) The Battle of Tsushima
2007-07-22 Sun 00:00
大久保支隊も土堤の側で、反対側に位置するロシア軍を攻めあぐんでいた。
土堤は鉄道線路の両側に、それぞれ十メートルの高さで築かれている。
大久保支隊が攻撃しようとすれば、二つの土堤と鉄道線路を越えなければならない。
その間に射弾を集中される危険性を顧慮すれば、自然と慎重にならざるを得ないのである。
そのような日本軍の逡巡を感じて、窪地のロシア軍は夜まで時間を稼ぐことにした。
午後四時、奉天では、ガネンフェルト隊が出撃した。
同隊は、左に第二百四十一連隊、右に第五十五連隊を配置して東へ進んだ。
奉天城の東方地域は、墓地、樹林、土塀、民家等が散在する地形となっている。
城外北東地域には、清朝の太祖を祀る東陵があり、まわりは松林で囲まれている。
さらには、北には太宗を葬る北陵が、濃い緑に縁どられて一望の黄土平野の中に蹲っている。
奉天城の東北約三キロの地点に、日本軍の砲兵隊が布陣しているのが遠望された。
この部隊は第六師団に所属する村岡恒利大佐の指揮下にある徒歩砲兵第四連隊であった。
同隊は急進する本隊を追及できず、やむを得ず後方警備についていたのである。
無論、村岡大佐もロシア軍が接近してくることに気づいていた。
しかし、砲兵隊を護衛する歩兵の数は僅かに八十人である。
大佐は、第六師団司令部が位置する西毛家屯の南西の樹林内に後退することを決意した。
そして、付近に配置されていた第二十三連隊に庇護を求めたのである。
ガネンフェルト隊は、徒歩砲兵第四連隊を追尾し、攻撃を開始した。
時刻は午後四時三十分頃のことである。
日本側も無論、応射した。
しかし、所詮、小兵力である。
たちまち、護衛隊は後退し、砲兵隊も沈黙した。
ロシア軍も攻撃の途中で、ガネンフェルト少将が負傷し、指揮官の地位を第五十五連隊長ワシリエフ大佐に譲った。
大佐は、日本側の砲撃が中止したことを敗走と判断した。
そこで、大佐は第二大隊に放置されたと思える砲の奪取を命じた。
どうしたことか、第二大隊は動こうとはしなかった。
「抗命だ。銃殺にするぞ」
大佐は激怒したが、その瞬間、頭部、胸部、腹部に銃弾を受け、即死した。
戦死したワシリエフ大佐に代わって、ガネンフェルト隊の指揮を執ることになったのは、第五十五連隊第三大隊長ドニチ中佐であった。

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Launch Postponement of the KAGUYA (SELENE)
2007-07-21 Sat 17:01

Mitsubishi Heavy Industries, Ltd. and JAXA announced that we decided to postpone the launch of the Lunar Orbit Explorer "KAGUYA" (SELENE) by the H-IIA F13.
The launch was originally scheduled on August 16, 2007 (Japan Standard Time, JST.)
The new launch date will be announced as soon as it is determined.

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ツシマ沖の海戦(その三百八十) The Battle of Tsushima
2007-07-21 Sat 00:01
午前四時三十分頃、大窪の西南にある高地に門司支隊が進出した。
同じ時刻、第一軍の近衛師団の近衛第三連隊は蒲河を占領した。
同じく近衛第四連隊は潘家台を攻略した。
第四軍第六師団の右翼隊は、その第十三連隊が大窪の西南高地にいる門司支隊と合流した。
第四十五連隊は、前魚鱗堡を経て鉄嶺街道を越え、范家坆に出た。
第六師団の左翼を担当している第二十三連隊も、西二台子付近で鉄嶺街道を越えた。そして小東屯に進んだ。
更に、大久保支隊の右翼隊である後備第二十四連隊は、西二台子北方の高地から西へ進み、遂に王官屯に近い鉄道線路東側の土堤に達した。
王官屯は小東屯の西方に位置する集落である。
第四軍、第一軍のこのような進出により、ロシア軍の退却路はかなり制約されることとなった。
ロシア満州軍主力の退却は、鉄嶺街道と鉄道線路沿いとその中間地帯を使って行われていた。
ところが、今や鉄嶺街道は、蒲河以南は封鎖されることになり、鉄道線路沿いのルートも王官屯付近で阻止されることとなったのだ。
では、中間地帯はといえば、これも、范家坆および小東屯の二か所に楔を打ち込まれた形となった。
特にロシア側の脅威となったのは、日本軍の鉄道進出である。
鉄道自体はすでに最終退却列車も出尽くしている現況では、たとえ破壊されても何ほどの影響も出ない。
しかし、大久保支隊の右翼が進出した線路の反対側にはロシア軍が密集していたのだ。
線路の土堤と東瓦子窑部落の間には大きな窪地があり、その数九千乃至一万の兵員がそこに息を潜めていた。
それらは、シベリヤ第一連隊長レーン大佐の支隊をはじめ、主に第二軍の置き去り組が集まっていた。
兵の中には土堤沿いに北進する者もあったが、大部分は夜を待って移動しようとして、動こうとはしなかった。
午後四時ごろ、第二軍司令官カウリバルス大将が、この窪地に到着したが、その時土堤の上で東方を警戒していた哨兵が、敵だと叫んで射撃を開始した。
カウリバルス大将が驚いて、「敵の筈はない。友軍である」と怒鳴って射撃を中止させた。
しかし、大将自らが土堤の上に登って、東方を望見すると、そこには日本軍がいた。
「敵だった。よろしい。撃て」
大将は、そう命ずると土手を下りて、そのままクロパトキン大将のいる虎石台へ去っていった。

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ツシマ沖の海戦(その三百七十九) The Battle of Tsushima
2007-07-20 Fri 00:00
ガネンフェルト少将は、取り敢えず日本兵が占拠している門前の民家を砲撃するため、二門の砲を用意させた。
まさに、砲撃を開始しようとしたその時、城内から数騎の騎兵が馳せ寄ってきた。
軍旗を掲げた奉天将軍増祺の使者であった。
その中の将校と思しき人物が、ガネンフェルト少将の側に馬を寄せてくると、一礼した後、流暢なロシア語で話し始めた。
彼は、まず、奉天は中立国清国の都市であり、ロシア軍が城内から砲撃すれば、当然日本軍も反撃してくるであろう、と指摘し、
「砲撃は中止して欲しい。貴軍がこのまま城内に留まるのは、はなはだ迷惑である。速やかに城外に出られんことを切望する」
と、告げた。
外国を戦場とし、ましてや今は退却時である。現地人の反感を買うのは得策ではない。
ガネンフェルト少将は咄嗟に、そう判断すると、使者の要求を飲むことにした。
少将は、部隊を城外に出して、城壁の東北隅から東へ向かわせることとし、その旨を各隊に伝達した。
この頃、第四軍の主力である門司支隊、大久保支隊および第六師団は、各部隊の目標とする地点が接近していたため、前進するにつれて自然とその第一線同士が寄り集まることになった。
つまり、各部隊の混淆が起こったのである。
第四軍の主力は、その入り混じった部隊の整理をするために、魚鱗堡付近でいったん停止して、隊形の整える作業にとりかかった。
午後四時頃、ようやく部隊の隊形整理が終わった第四軍主力は第十師団とともに鉄嶺街道目指して出発した。
一方、大窪を守備するシベリヤ第五軍団長デムボウスキー中将は、指揮下の砲兵第三旅団から弾薬が尽きたため退却を開始する、という報告を受けた。
時刻は、午後四時少し前のことである。
輜重部隊は退却行にあたり打上げられた「かぐや」は、地球を2周回って月に向かい、月を回る軌道に入ります。先発したため、手持ちの砲弾を使い果たせば、戦闘を中止せざるを得ないのである。
「我が任務は終われり」
デムボウスキー中将は小さく首を振りながら呟いた。
中将は、前方に派出した部隊に撤退と命じると、自身も愛馬に身を任せ、大窪を去っていった。

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ツシマ沖の海戦(その三百七十八) The Battle of Tsushima
2007-07-19 Thu 00:03
大南辺門外には、架橋用の鉄舟等の資材が散乱していた。
それよりも斥候隊が目を見張ったのは、城内から軍服、器具、糧食、寝具等の雑多な略奪品を担いだ清国人の一群に出会ったことである。
彼らの中には、これも略奪したと思える馬車や荷車等に資材を満載している者までいた。
大南辺門を入り、小南辺門を潜ると、水田隊は前方に約二十騎のロシア兵を発見した。
しかし、相手は日本兵に気付かなかったのが、そのまま北方へ去っていった。
水田隊は、馬を進め城内中央部まで達すると、そこで馬首を返して再び大南辺門を通過して、帰途に就いた。
午後三時ごろ、帰隊した水田中尉は、種田大佐に報告した。
「奉天城内に敵無し」
現実は違っていた。
城内には引き揚げてきたガネンフェルト隊がいた。
現に、水田隊が目撃したロシア騎兵も、ガネンフェルト隊に所属していたのだ。
ガネンフェルト隊は、奉天城の小東辺門の外に集結していたが、水田隊は城内東部の偵察をしなかったので、それに気付かなかったのである。
水田隊の報告結果は、直ちに種田大佐を通じて、第十師団長塚本中将に伝達された。
この報告を待ちわびていた中将は、すぐさま第七旅団長須永少将に下令した。
「一部を奉天城内に進め、主力をもって小西辺門外に前進せよ」
ところが、この命令の伝達は遅れ、既に奉天停車場に進出していた第三十七連隊第二大隊は、暫くの間、奉天停車場前に待機することとなった。
停車場は火炎を吹き上げ、盛んに炎上している。
彼らは、その火炎を背にして大休止をとった。
駅周辺の民家も黒煙を立ち昇らせている。
この間に、城内のガネンフェルト隊の主力は、退却行を試みるため大東辺門に到着していた。
先頭が門を出ようとしたとき、いきなり射撃を受けた。
ガネンフェルト少将は、斥候を派遣して状況を探らせた。
すると、門外の小家屋に日本兵が立てこもっている、というではないか。
少将は、同行している第五十五連隊長ワシリエフ大佐に意見を求めた。
「当面の日本兵は、おそらく乃木軍の哨兵でしょう。蹴散らして安全な東方へ進むのがよろしかろうと思慮します」
大佐の意見に、少将は大きく頷いた。
少将も大佐も、この時点では東部地域区が日本第四軍によって突破されたことを、まだ知らなかったのである。

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ツシマ沖の海戦(その三百七十七) The Battle of Tsushima
2007-07-18 Wed 00:00
午後二時、クロパトキン大将は、第二、第三軍の退却は順調に行われ、ほぼ北陵と二台子を結ぶラインの通過を完了したことを知らされた。
同時に、ラウニツ大将が指揮する北方兵団も退却を開始した、いう報告を受けた。
大窪に派遣したボゴリスキー少将からも、日本軍は北東に約一個師団、南東に一個師団余が存在しているが、わが軍はそれを拒止している、と報告してきた。
大将は愁眉を開き、鉄嶺にいる参謀長サハロフ中将に電話をかけた。
「予の戦略的後退は成功せり。北陵以南にわが軍は存在せず」
しかし、実情は異なっていた。
この時期、西部戦線のいたるところには、指揮官を失った小部隊が散在していた。
それどころか、大韓屯の後方と奉天停車場付近には有力な部隊が残っていた。
ガネンフェルト少将の指揮する第十軍団の後衛部隊である。
これらの見捨てられた将兵たちはやがて悲惨な運命を辿ることとなる。
ところで、西部戦線に取り残された部隊は第十連隊長マクシモフスキー大佐が指揮するシベリヤ第一軍団の後衛部隊であったが、午後三時ごろ、本隊の指令を受けて退却を開始した。
同時刻、ガネンフェルト隊も軍団司令部からの命令に従って、奉天城内に引き上げることとなった。
奉天駅に駐在していた同隊の主力は、停車場付近で徘徊し、しきりに商店から酒を略奪しては泥酔するはぐれ兵たちの所業を防止するため、ガネンフェルト少将は部下に停車場とその近辺一帯の民家への放火を命じた。
同隊は紅蓮の炎と立ち上る黒煙を背にして城内に向かった。
ところで、ガネンフェルト隊は気づいていなかったが、この時期、日本軍の一部が既に奉天城内に足を踏み入れていた。
それは、第二軍の配下部隊の偵察隊であった。
奉天の西方に位置していた第二軍は、正面の敵の追尾に専念していたが、同軍最南端にいた第十師団長塚本勝喜中将は、密かに奉天城一番乗りを意図していた。
塚本中将は、指揮下にある騎兵第五連隊長種田錠之助大佐が率いる種田支隊に奉天偵察を命じた。
そして、その結果によっては奉天城に進出するよう第七旅団長須永武義少将に指示した。
午後一時すぎのことである。
命令を受領した種田大佐は、水田久寿弥太中尉以下の八名の将校斥候を出発させた。
一方、須永少将は、第三十七連隊第二大隊に、命令を待って奉天へ進出することを命じた。
水田中尉ら将校斥候の一団は、途中で土民情報を収集しながら、道を急いだが、それによるとロシア兵は奉天城内にはいない、とのことである。
水田斥候隊は奉天城大南辺門を目指して駒を進めた。

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ツシマ沖の海戦(その三百七十六) The Battle of Tsushima
2007-07-17 Tue 00:00
クロパトキン大将を驚かせる「凶報」は次々と入ってきた。
大韓屯に布陣していたシベリヤ第一軍団を指揮するゲルングロス中将からは、今より退却に就く旨の報告が入電すると、続いて朱爾屯が砲撃を受けたという情報が伝わってきた。
クロパトキン大将は戦慄した。
日本軍が東西から鉄道線路に接近しつつある気配が感じられたからである。
同じころ、大将は、大窪にシベリヤ第五軍団長デムボフスキー中将が到着したという知らせを受け取った。
大将は、デムボフスキー中将に対して、第一軍団長メイエンドルフ大将に代わって、同地を固守するよう厳命した。
さらに、大将は西側から迫る日本第三軍の阻止を確実にするため、虎石台を守備するモロゾフ隊に冬常上攻撃命令を下した。

一方、蒲河付近の鉄嶺街道に迫りつつある近衛師団は、午後一時過ぎ、潘家台の東に進出し、砲兵隊の一部が街道上のロシア退却部隊を砲撃した。
砲撃を受けたロシア軍縦隊は、西北方向へ潰走し、その大集団が捲き上げる黄塵は天を蔽い、地面には死傷したロシア兵と破壊された車輌が散らばり、頗る惨状を呈した。
しかし、砲兵主力の追及が遅れていたため、ロシア軍を殲滅することはできなかった。
日本第四軍の進撃速度は目に見えて衰え始めていた。
主な原因は、将兵の疲労であった。
現に、午後一時、第十師団の前衛部隊司令官を担当していた大谷少将は、同師団長安東貞美中将に対して意見具申を行っている。
「諸兵は、連続三昼夜の行進と戦闘を重ねたるを以て、疲労の極点に達し、強いて前進を促すも其の運動極めて遅後するの虞あり」
勿論、この事情は各部隊共通のものであった。
ロシアの退却援護戦闘も第四軍の足を止める一つの要因となった。
クロパトキン大将から大窪固守を命じられたシベリヤ第五軍団長デムボフスキー中将は、退却軍の中から歩兵二十個中隊と砲十六門を引き抜き、編成を終えると、大窪を拠点として、その東方の趙家溝、南に当たる王家溝にそれぞれ兵を配備した。
ロシア軍の戦意が完全に失われていたわけではなかったのである。

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ツシマ沖の海戦(その三百七十五) The Battle of Tsushima
2007-07-16 Mon 00:36
近衛師団の砲撃は、蒲河地区でも悲劇を招来していた。
蒲河の集落の南側には、両側の崖が迫り、切り通しのように道幅が狭くなっている処がある。
ここには、前日奉天を引き上げてきたロシアの民間人が多数留まっていた。
そこへ、情け容赦なく日本軍の砲弾が落下してきた。
彼らは家財道具を積んだ馬車とともに休んでいたが、砲撃を受けて泣きわめきながら逃げ場を求めて右往左往した。
そこには、露清銀行の銀貨を運ぶ二輪車十三両も並んでいた。
そこへ、後続の部隊の中から、突然、三両の砲弾輸送馬車が突っ込んできた。
砲弾の炸裂音に驚いた馬が狂ったように暴走しはじめたのである。
禦者は,すでに狂奔している馬を鞭で乱打したため、大弾薬車は群衆に突入し、その進路にある者をことごとく蹂躙した。
婦女子を含めた市民たちが無残な姿となって路上に倒れ伏した。
その惨事に仰天した将兵たちが銃を乱射したため、その盲弾に斃れる者が続出した。
街道上は、見る間に、流血の騒乱場となった。
この騒乱に乗じ暴徒と化したロシア兵の一部は、市民の馬車を襲って財物を略奪し、露清銀行の運搬車からも三万ルーブルを盗取した。
正午少し前、クロパトキン大将は、虎石台の南方に滞在している第八軍団長ムイロフ中将からの報告を受けた。
観音屯、文官屯、三台子は完全に確保し、日本軍の攻撃はすべて撃退した、という内容である。
朗報である。
これで、退却援護は万全となった。
久しぶりにクロバトキン大将の髭に覆われた顔に笑みが戻った。
しかし、朗報があれば、また凶報ももたらされるものである。
大窪に派出したボゴリスキー少将から、鉄嶺街道上の退却部隊が西方へ潰走している旨の通報が入ったのである。
その上、鉄麗に先発したサハロフ中将から、鉄道守備隊からの報告として、退却軍内の軍紀の乱れを伝えてきた。
それは、クロパトキン大将をして、光輝ある露軍の軍紀も地に落ちたかと嘆かせるに十分な内容であった。
奉天からの列車は、大編成であり、しこたま貨物を積載している関係で、速度はでない。
そのため、途中から列車に飛び乗る敗兵の数は少なくなかった。
彼らは車室に入りこむと、中には公然と飲酒と賭博を始める者もいた。
鉄道守備隊の報告によると、二等車に押し入ろうとして将官に注意された兵は、「将官が何だ。戦場においては平等である。戦闘の際に、敬礼する者が誰かいるのか」と色をなして食ってかかったというのである。
また、司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」の描写を借用すれば、ある下士官は、銃を路傍に捨てて進行中の列車に飛びついた。将校がそれを注意すると、「銃なんざ、盗まれたよ」と言い返した、という。
軍隊秩序の崩壊をまざまざと象徴する事件である。

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ツシマ沖の海戦(その三百七十四) The Battle of Tsushima
2007-07-15 Sun 00:43
日本満州軍総司令部では、第三軍に対するロシア側の抵抗の激しさと、第二軍の遅々たる前進速度から判断して、ロシア軍には総退却の意思はなく、依然として反撃の機会を伺っているものと推断した。
ちょうど、正午を過ぎたころのことである。
第四軍司令部も、第三軍の危機を救うために、奉天北方を横断して、第三軍と手を結ぶことを第一の任務として認識していた。
したがって、自軍の行動がロシア軍主力の退路を遮断し、敵の退却計画に大きな打撃を与えつつあるという自覚はなかった。
ただし、相次いで現れる敵陣地には既に敵影はなかったため、進撃速度は上がっていった。
正午ごろ、シベリヤ第三軍の主力は、日本軍の追撃と避けるために、大窪を越えたあたりで鉄嶺街道に入った。
同じころ、日本第四軍は、南北にかけて第六師団、大久保支隊、門司支隊、第十師団の順に並行しながら北西方向に進撃していた。
間もなく、第六師団は西毛家屯、大久保支隊は東毛家屯へ到着した。
そして、門司支隊は山咀子、第十師団は辛家勾付近に達した。
辛家勾には、第一軍第一軍団がロシア側の側方防御についていたが、第十師団の砲撃を受けるとたちまち潰走した。
彼らは鉄嶺街道へと走ったが、この他愛ない敗走ぶりにより、既にロシア軍の戦意はかなり低下していることが伺えた。
付近には死んだ馬、現地から調達した車輌、破壊された輜重車輌や転落した行李などが散乱して、狼藉の限りを尽くした光景であった。
折から、三窪の東方には第一軍の近衛師団が姿を現した。
同師団の砲兵隊は砲撃を開始し、その砲弾は三窪を中心にして、北の蒲河、南の大窪にも落下した。
そのため、鉄嶺街道は大混乱に陥った。
街道上のロシア各部隊は入交り、それに南東から日本第四軍に圧迫されてきた第十七軍団の後衛部隊が混じりこみ、将兵は狂乱した。
彼らは逃げまどいながら銃を乱射した。
居合わせた第一軍団長メイエンドルフ大将は、幕僚とともに兵の整理にあたったが、僅かに第百四十五連隊、第百四十六連隊の数百人の掌握に成功しただけであった。
その他の諸隊は滔々として北走する人馬と輜重の列に埋没してしまった。
そのうち、大将自身もその人波に飲み込まれて、乗馬ごと転倒し、鎖骨を折って、やむを得ず指揮を放棄した。

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ツシマ沖の海戦(その三百七十三) The Battle of Tsushima
2007-07-14 Sat 00:17

大谷支隊がロシア第一軍団に追いつけたのも、シベリヤ第六軍団の輜重部隊と砲兵部隊が紛れ込んで来て、第一軍団の行進速度を妨げたからである。
そのシベリヤ第六軍団にしても、当初は予定通り行動していた。
出発も定められた時刻、午前一時四十五分に開始され、午前六時には先頭の第五十五師団が後陵に到着している。これもスケジュールから外れていない。
ところが、その後陵は既に第一軍団とその輜重部隊で混雑を極めており、おまけに、北方への道が狭いため、郊外に屯して通過の順番待ちを強いられる部隊の姿も多く見受けられた。
時間待ちをしている輜重部隊の兵士の間では、このような処で暇つぶしてしているくらいなら、直ちに鉄嶺街道へ向かうべきだとの声が次第に高まってきた。
その時、誰かが、「日本兵が来た」と、叫んだ。
この「ヤポンスキー」という一言がパニックの引き金となった。
輜重車輌の列は次々と西方の鉄嶺街道めざして潰走しはじめた。
他方、第十七軍団は奉天の南方、渾河堡の付近に布陣していたが、退却の予定計画通り午前二時にその第一線を撤収した。
同軍団は奉天城の東側を通過して鉄嶺街道に出る予定であった。
ところが、先発させた輜重部隊が奉天城内を通過するのに手間取った。
それに加えて、西からは第二軍の輜重部隊が、これも鉄嶺街道へ出ようとして奉天の北部地域に殺到してきた。
その煽りをくって、第十七軍団は、奉天の南東で立ち往生を強いられることとなった。
同軍団が、ようやく奉天城の東北隅を通過して鉄嶺街道に出たのは、既に午前八時を回ってからのことであった。
シベリヤ第一軍団は、第十七軍団の西に陣を構えていたが、予定より一時間遅れて午前一時に出発した。
第一軍団は十里嗎頭を経て奉天城の西側を回りこみ、鉄嶺街道に出ようとしていた。
しかし、その行進は渋滞の繰り返しのため、その先頭が大北辺門に到着したのは、これも午前八時すぎであった。
大北辺門は鉄嶺街道の出発点である。
では,このころの日本軍の状況はと言えば、西部戦線の第二軍においては、とりたてた動きはなかった。
満州軍総司令部からは、第二軍には特に指示が与えられなかったからである。
第二軍司令官奥大将は、配下の各師団に次のような当面の攻略目標を与えた。
すなわち、第四師団には公相屯、第五師団には甘官屯、第三、第八師団にはそれぞれ干洪屯、前丁香屯を指定した。
同じく西部戦線の第三軍は、動けなかった。
同軍第七師団は前日来の北陵の攻略を目指したが、ロシア側の抵抗は激烈であった。
おまけに、戦場が森林地帯であったため、混戦状態となった。
攻撃を担当していた第二十八連隊は、遂に北陵内に押し込められ、連隊長の村上正路大佐が捕虜になるという惨状を呈した。
第一師団は、三台子の攻略に手間取っていた。
第一師団の北側に位置する第九師団は、冬常上、歪樹子を攻撃したが成功しなかった。
いずれの師団も損耗が激しく、兵は疲労困憊していた。

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ツシマ沖の海戦(その三百七十二) The Battle of Tsushima
2007-07-13 Fri 01:39
クロパトキン大将は、一抹の不安の念を覚えた。
第三軍の退却列は、或いは日本軍に追尾されているのではないか。
大将は、同行した幕僚に命じて、伝騎を走らせた。そして、大窪に向いつつあるボゴリスキー少将に道を急ぐようにと伝えさせた。
伝騎の巻き起こす砂煙が、やがて少将の乗る白馬に追いつき、そして、その白馬が引く砂塵が南へ伸びていった。
丘の上の大将は、その光景を馬上からじっと眺めていた。
午前七時過ぎ、日本第四軍の東翼を形成する第十師団は、右に前田支隊と左に大谷喜久蔵少将の指揮する第八旅団を配置して、右翼は乱泥凹子、左翼は下水泉方面を目指して進撃した。
前田支隊は、乱泥凹子において敵と衝突した。
それは僅かな残敵であったため、難なく駆逐すると、ロシア軍は西の福陵及び南西の英達堡子へ退却した。
英達堡子方面には、ロシア軍の大縦隊が望見出来だが、前田支隊は、まだ所属する砲兵隊が渾河渡河を終わっておらず、折角の獲物を手をこまねいて見送る以外に術がなかった。
一方、左翼の前衛部隊は英達堡子の東方にあたる中水泉に進出し、午前六時四十分から退却する敵の後尾をめがけて砲撃を開始した。
「敵の周章狼狽恰も蜘蛛の子を散らすが如く一大壊乱に陥り・・」
前衛の司令官を務めていた大谷少将は、日誌に記述している。
「実に快絶、壮絶・・未曾有の快味を感じたり」
砲弾はロシア軍の砲車を砕き、人馬を空中に跳ね上げた。
砲撃を受けたのは、ロシア第三軍の撤退を援護するために後陵付近へ移動中の第一軍第一軍団であった。
クロバトキン大将が虎石台の丘上で耳にしたのは、この砲撃音であった。
残念なことに、この時期にロシア軍に追いつき、砲撃を加えたのは大谷少将の率いる第十師団の前衛隊だけであった。
もっとも、ロシア第三軍が予定通り退却行進を実施していれば、日本側の追及をすり抜けていた筈である。
原因は道路とその退却の事情にあった。
退却を行う場合には、通常、戦闘力の微弱で行進速度の遅い輜重部隊を先行させるのが軍隊の常識である。
ロシア第三軍も西部戦線の第二軍もその常識を守った。
殆ど車輌によって編成されている輜重部隊は、必然的に車両の通行が容易な道路を選ぼうとする。
ところが、当時の清国の、この地区の道路事情と言えば、今日では想像もできがたいほどの劣悪なものであった。
奉天から鉄嶺に向かう車輌が通れる道と言えば、鉄嶺街道一本だけであった。
同街道に第二、第三両軍団の輜重部隊が殺到したのは無理からぬことであった。
したがって、退却に当たっては、強力な交通整理の必要があったのだが、ロシア総司令部はその配慮に欠けていた。
後に批判されることとなるのだが、ロシア軍の退却作戦は、当初から人為的かつ自然的なハンディキャツプを背負っていたのだ。

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"KAGUYA", Japan’s first large lunar explorer.
2007-07-12 Thu 15:45
"KAGUYA"(SELENE) will be launched by the H-IIA rocket No.13 at 9:30:48 a.m. on August 16, in 2007.
It is the largest lunar mission since the Apollo program,
The major objectives of the mission are to understand the Moon’s origin.
KAGUYA will investigate the entire moon in order to obtain information on its elemental and mineralogical composition.
KAGUYA consists of the Main Orbiter and two small satellites.
The Main Orbiter will reach the vicinity of the Moon.
Once it has reached the Moon, it will be placed into a peripolar orbit at an altitude of 100 km.
The Relay Satellite will be placed in an elliptic orbit at an apogee of 2400 km, and will relay communications between the Main Orbiter and the ground station.

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ツシマ沖の海戦(その三百七十一) The Battle of Tsushima
2007-07-12 Thu 00:08
ロシア第三軍のうち、シベリヤ第五軍団と第十七軍団の退却路は鉄嶺街道であり、シベリヤ第六軍団と第一軍第一軍団の予定退却路は同街道の東側を指定されている。
これに対して、日本第四軍の進撃路は、渾河から始まって、北東に進み、西二台子、二台子、魚鱗堡、大窪を目指すものであり、まさにシベリヤ第六軍団と同第一軍団の退路を断つものであり、これが成功すれば、ロシア満州軍主力を袋の鼠とすることができたのである。
もっとも、これは両軍の行進速度にかかっている問題であり、日本軍が先回りできるのか、それともロシア軍の後塵を拝するかは、それこそやってみなければ分らなかったに違いない。
まさに、神のみぞ知る事象であったのだ。
いみじくも、クロパトキン大将の形容したように、これは靴下と足との関係であった。
ロシア軍がするりと足を引き抜くか、それとも日本軍の靴下止めが抑え込むか、の、世紀の大勝負であった。
他方、奉天の状況は、午前五時四十五分、最後となる第三組の退却列車が出発して、前日は駅構内を埋め尽くしていた客貨車の姿はなく、がらんとした駅舎には人影も疎らであった。
しかし、停車場付近は、退却部隊が遺棄した被服、装備、車両等で足の踏み場もなかった。
ただ、それに群れた清国人男女が略奪に精を出していた。
西の方からは、敗残のロシア兵が三々五々、奉天駅に集まって来たが、いずれも疲れ切った足取りである。
路傍には泥酔したロシア兵がまるで死体のように横たわっていた。
ちょうど同時刻、虎石台停車場では、クロパトキン大将が仮眠の夢から覚めて、起床したところであった。
大将は、その少し前に奉天から到着したばかりのサハロフ参謀長の姿を見つけると、直ちに鉄嶺に先行して退却部隊の整理をするように命じた。
次いで、司令部付ボゴリスキー少将にも、大窪へ向かうように指示した。
彼にも、サハロフ中将と同様な任務を与えたのである。
朱爾屯には、第一軍から派出されたシベリヤ第一師団長モロゾフ少将が指揮する二個連隊と、砲兵第十旅団長ラドケウィチ少将の一個旅団が到着していた。
その報告を受けたクロパトキン大将は、ラドケウィチ部隊を虎石台に呼び寄せ、モロゾフ隊を南東の前占屯へ派遣した。
大将は、次に、自ら状況を把握するため、停車場付近の小高い丘に登り、鉄嶺街道の大窪の方角に双眼鏡をかざした。
大窪は虎石台の南南東約六キロに位置する。
大将の眼鏡には、輜重の大縦隊が数列になり、陸続として退却している光景が映し出された。
「あの頗る緩慢なる運動は何事であるか」
大将は独りごちた。
折しも、はるか南東からは殷々たる砲声が響いて来た。

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ツシマ沖の海戦(その三百七十) The Battle of Tsushima
2007-07-11 Wed 06:47
肥牛屯は護山堡の北東に当位置する集落であり、汪千堡子は鉄嶺街道上で蒲河の東北に当たる部落であり、三窪は蒲河の南南西方向に位置する小村落である。
第一軍幕僚たちは、総司令部の目的は、蒲河と奉天間においてロシア軍主力を包囲することにあると、見込んでいた。
そのため、第四軍が西に転じたことも、それは一種の陽動作戦であり、同軍が蒲河・奉天間に楔を打ち込んでいる間に、第一軍が西の第三軍と蒲河南岸付近で遭遇し、それによって包囲網を完成させるものである。
これが第四軍司令部の理解するところであった。
ところが、新命令によると、第二、第十二師団は停止することになる。
総司令部の方針転換に、大いに不満な参謀長藤井茂太少将は、司令官黒木大将の同意を得て、総司令部に意見具申をすることにした。
黒木大将も苦笑して、「弥助どんな。ちいとうろたえちょつと違げもすか」と、呟いた。
黒木大将も同じ薩摩の出身である。
彼は二歳年上の郷土の先輩を幼名で呼びながら、首を傾げて見せた。
黒木にも第三軍の苦境に動揺した総司令部が、本来の包囲作戦を放棄したように思えたのである。
藤井の意見具申は次のようなものであった。
「敵は、全軍退却中なる事疑い無く、益々北方に進み以て彼の退路を遮断するを得策なりとす。第一軍の各師団は前夜の命令に従い行動中であり、速やかな変更は不可なり」
しかし、総司令部は意見具申を却下した。
黒木大将は、やむを得ず第二師団に連刀湾、第十二師団には護山堡、近衛師団には三窪を進出の限度とし、自重を促した。
この作戦変更は、後に様々な批判を招くことになる。
たとえば、機密日露戦史において、陸軍大学校教官谷寿夫大佐は、述べている。
「真に九仞の功を一簀に欫くものと云うべく、吾人は、当時の満州軍総司令部の作戦指導に対し、遺憾の辞を呈せざるを得ず」
谷大佐は、更に続けて、「予の実験に依れば、此の日朝来未だ露軍の主力奉天付近に停止せるに際し、総司令部は大局の戦勢特に第一、第三両軍を以てする袋の口を結び著けざるべからず。当時第一軍の一部は蒲河東南地区に進出し、鉄道線路両側の第三軍とは相距る僅か二十吉米に過ぎずして、連繋の緊要なる此場合を措て他に求むべからざる好機に相互間何等の連繋手段に講ぜられず。互いに彼方を望みて茫然たるのみ。此時若し総司令部幕僚の活動により握手することを得ば、その効果は幾許なりしぞ。」
と慨嘆を久うしている。
因みに谷大佐は、士官候補生として明治三十五年近衛歩兵第一連隊に入隊し、日露戦役にも参加している。

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H-ⅡA F13
2007-07-10 Tue 11:02
The H-ⅡA Launch Vehicle No.13(H-ⅡA F13) with KAGUYA onboard is equipped with two Solid Rocket Boosters (SRB-A) and two Solid Strap-on Boosters (SSB).
The fairing's model is the 4S..

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ツシマ沖の海戦(その三百六十九) The Battle of Tsushima
2007-07-10 Tue 07:01
ところが、この通報には明らかに第三軍に対する督戦の意味が含まれていた。
児玉参謀長は、電話口に第三軍参謀長松永正敏少将を呼び出し、叱声を浴びせた。
「まだ鉄道を遮断できぬのか。貴軍は一体何をしているのか」
第三軍司令官乃木希典大将は、総司令部からの通報を受けると、直ちに行動を起こした。
午後三時十分、指揮下の第七、第一、第九各師団に払暁よりの運動開始を命じた。
そして、それぞれの進出目標を北陵東方、柳條湖、虎石台とした。
この時期、第三軍の兵力は激減し、残った将兵も疲れ切っていた。
実のところ、乃木司令官も、前夜午後十時、暫く待機の姿勢をとり、友軍進捗を待つと決心し、その旨の命令を示達していたのである。
第三軍の幕僚たちも、果たしてどこまで進撃できるのか、と疑心の念を抱きながら出動命令を伝えたのである。
午前三時三十分、総司令部は第四軍にも通報を送った。
「第三軍左翼は、優勢なる敵の逆襲を受け、少しく退却せり」
第三軍救援を急げとの、内示である。
この時、第四軍の配置は、奉天南から北東にかけて、第六師団、門司支隊、大久保支隊、第十師団の順で、左翼から右翼を構成していた。
第四軍司令官野津道貫大将は、次のような攻略目標を与えた。
第六師団は奉天東北隅、大久保支隊は西二台子、門司支隊は魚鱗堡・二台子、第十師団は大窪・魚鱗堡に向かうことを命じたのである。
目標地はいずれも鉄嶺街道上に存在する集落である。
つまり、野津大将は同街道の征圧を目論んだのである。
命令は午前三時四十五分に発令された。
その直後、午前四時、第一軍司令部にも総司令部の命令が届いた。
その内容は、約一個師団で北方及び撫順を警戒せよ、近衛師団は、大窪北東の三窪へ進出せよ、他の部隊は渾河右岸に位置する興隆屯、旧站付近で奉天方面の戦況に即応できる態勢をとれ、であった。
命令を受領した第一軍参謀長藤井茂太少将は思わず声をあげた。
「これは奇なる命令ではある」
第一軍は、既に、第四軍の西転の通報とその右翼擁護の指令を受けて行動中であった。
前夜、右翼の第二師団には肥牛屯、中央にいた第十二師団には護山堡経由で汪千堡子、近衛師団には三窪へそれぞれ進撃するように命じ、その旨は総司令部にも報告済みであった。

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ツシマ沖の海戦(その三百六十八) The Battle of Tsushima
2007-07-09 Mon 00:37
三月十日、この日は日本軍の用うべき最大兵力をもって決戦を行い、奉天を屠むった日となった。
午前三時五分、奉天停車場から退却列車の第二組が出発した。
予定通りである。
クロバトキン大将は、まだ虎石台停車場の仮の司令官室で執務していたが、
報告を聞くと満足そうに頷き、傍らの参謀副長エウェルト少将に声をかけた。
「何事も予定通りに行われるのが成功の秘訣だ。」
そして、付け加えた。
「靴下もまた、予定通り脱げるだろう」
靴下とは、大将の形容にかかる日本軍の奉天包囲網の形のことである。
ロシア軍は、第一軍が東部に張り出し、第三軍が奉天南部に。第二軍は奉天西部にあり、その大部分が鉄道線路沿いに展開している。
ロシア満州軍の態勢は、奉天付近を踵とし、その爪先が西に出て、鉄道線路と鉄嶺街道にそって伸びる大きな靴下の形をしていたのである。
大将の戦略の主眼は、その靴下型の日本軍包囲網から、自軍の主力を足を抜き出すように北方へするりと転進することにあったのである。
エウェルト少将は、「御心配には及びません」と胸を張った。
少将は、第三軍の退却は予定通り実行されていることを確信する、と述べた。
「行軍距離より推定すれば、第三軍は遅くとも本朝後半には所命の線に到達するものと思われます」
クロパトキン大将が指定した退却線は「渾河と虎石台」を結ぶ線である。
「結構だ」
クロパトキン大将は、そう言い捨てると、仮眠をとるために駅長室に設えたベッドに潜りこんだ。

一方、はるか南方の東烟台の日本満州軍総司令部では、児玉参謀長以下の幕僚たちが忙しく立ち働いていた。
各軍に対する指示の発信に大童であったのだ。
午前三時、総司令部は第三軍宛てに通報した。
第三軍の「危機」を救うため、総司令部が如何に努力を重ねているかを、強調したのである。
すなわち、第四軍に進撃を中止させ、奉天・魚鱗堡を結ぶ線から第三軍に対する敵を背後から攻撃させ、第一軍には第四軍の右翼援護を行わせる、という内容である。
これは、いうまでもなく敵の第三軍左翼に対する攻撃力を減殺し、速やかに有利な戦局を現出させるための措置であった。

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ツシマ沖の海戦(その三百六十七)
2007-07-08 Sun 09:20
同時刻、奉天駅ではサハロフ中将の指示の下に、北行きの列車が次々と発車していた。
各列車の編成は、五十二両から五十五両までとされ、第一組、第二組は八列車、第三組は十六列車とされた。
各列車の発車間隔は八分と定められ、第一組第一列車は、午後九時四十分、奉天駅を離れた。
退却列車の運行は、味方にも深く秘匿された。
そのため、鉄道関係者たちは、聞こえよがしに、車掌に鉄嶺での買い物などを頼んだ。
退却列車は、日本軍の銃撃をおそれて、無灯火で運行された・
無論、汽笛を鳴らすこともなかった。
行って帰っては来ない列車の秘密は、奉天にいる外国の観戦武官や報道陣にも知らされていなかった。
彼らの間では、乃木軍が北方の線路を遮断した、奥軍は南西の戦線を突破したといった類の情報が乱れ飛んでいた。
米観戦武官ジャドソン大尉は、ロシア満州軍司令部を訪ねて、その真偽を質したが、応対に出た司令部員は、それらはデマであると一蹴した。
そして、「戦況に変化はない。日本軍は攻撃せず、わが軍は退却しない」と、紋切形の応答を繰り返した。
しかし、武官や記者たちはロシア側が不利な態勢を強いられている、と判断していた。
日本軍進出の噂はあっても、ロシア軍が捲き返したという噂は一向に伝わってこなかったからである。
ところが、午後十一時、ジャドソン大尉は、親しくしていた司令部員から手紙を受け取った。
明早朝北へ行く。同行してはどうか。と書かれていた。
これは、退却だ、米観戦武官のマッコム少佐は叫んで、自分は同行する、と宣言した。
ジャドソン大尉は、残ると言った。
「奉天大包囲戦の成り行きを確かめるのが、観戦武官としての義務である」
英国の観戦武官であるハーバード大佐も、自分も見物すると同調した。
記者たちも残留組と同行組に分かれた。
午前零時少し前、奉天駅を満州軍総司令官クロパトキン大将専用列車が密かに奉天駅を発車した。

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ツシマ沖の海戦(その三百六十六) The Battle of Tsushima
2007-07-07 Sat 08:55
では、鉄道電話の送話器を握ったクロパトキン大将は、奉天駅のサハロフ中将を呼びだした。
サハロフ中将が談話口に出るや否や、クロパトキン大将は噛みつかんばかりの勢いで、怒鳴った。
「渾河突破せられたる時刻は、何時なりや」
「判りません」
「それでは、渡河せる日本軍の兵力及び部隊名は何か」
「それも判りません」
「しからば、第一軍は、それに対し如何なる処置を採ったのか」
「第一軍は側防強化に努めているのは確かですが、その他は不明です」
「第一軍のとの連絡は何時回復する見込みなりや」
「判りません」
「では、最後に貴官の対策案を聞きたし」
「今のところありません。今や全軍は退却の途につかんとしています。此処に至りて願うのは、ただ神の御加護のみであります」
「オー、ニエット。貴官の判断力は停止したものと認めざるをえない」
クロパトキン大将は、怒声とともに受話器を叩きつけた。
午後十時、指令官室に転用している一等待合室に、参謀副長エウェルト少将を招きいれ、ムイロフ部隊に対する攻撃中止命令を伝えた。
ムイロフ中将の部隊の任務の変更を命じる。
同隊は満州軍最後衛とする。
同隊は、第二、第三軍及び全輜重の通過するまで現地を固守せよ。
大将の口述を筆記し終わったエウェルト少将は,退室しようとしたが、ふと思いついたように歩みを止め、振り返って東部方面の日本軍に対する処置は必要ないのか、と問いかけた。
途端に、クロパトキン大将は、怒声を張り上げ、「進言は無用である。予は,既に考案している」と、それまで腰を下していたソファーから立ち上がった。
先刻のサハロフ中将との会話で鬱屈していた怒りが再び顔をのぞかせたのである。
そのような事情を知らぬ少将が肩を竦めているのを無視して、クロパトキン大将は口早に総予備隊司令官でシベリヤ第四軍団長ザルバエフ大将に対する命令を口述した。
「貴官は歩兵二大隊、砲二門を派遣し、旧站より蒲河に前進する日本軍を阻止せよ」
クロバトキン大将は、この時点では、旧站地区を突破したのは、僅かな兵力の前哨部隊であると、認識していたのである。
ところが、それは三個師団もの日本軍であることは、夢想だにしていなかったのである。

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ツシマ沖の海戦(その三百六十五) The Battle of Tsushima
2007-07-06 Fri 07:50
ところが、午後七時、福陵にいる第一軍第一軍団長メイエンドルフ大将から突如として電話が入った。
「ちょうど、よいところでした。」
サハロフ中将は、ほっとした様子で、総退却命令を伝えたが、命令を受領した後に話し始めたメイエンドルフ大将の言葉を耳にして、思わず絶句した。
旧站付近で日本軍は渾河を既に渡って北進中である、というのである。
しかも、シベリヤ第四軍団の左翼は退却し、シベリヤ第二、第三軍団および第一軍司令官リネウィチ大将との連絡は途絶している、というではないか。
気を取り直したサハロフ中将は、その情報は暫く機密にしておいて欲しい、口早に伝えた。
「漏れれば全軍の士気に影響しますから」
この要請に対して、メイエンドルフ大将は、そくざに「ダー」と応諾したが、通話を終えるとすぐさま、第二軍司令官カウリバルス大将と臨時第三軍司令官を務めている第十七軍団長ビルデルリング大将に、旧站地区が敵の手に落ちたことを通報した。
一方、サハロフ中将は、第一軍団長の報告をクロパトキン大将に知らせるべく、極秘電を発信した。
大将からは、前もって朱爾屯から虎石台に移動するという連絡を受けていたため、その電信は虎石台停車場気付けとされた。
同時に、中将は負傷者と資材の後送のために列車の運行を急がせた。
実のところ、負傷者輸送の最後の列車は午後五時奉天駅を出発していた。
奉天には、ロシア軍負傷者千二百人、日本軍負傷者五百人が取り残されていた。
しかも、前線からはひっきりなしに傷病兵が後送されてきていた。
病院、停車場、幕舎だけでは収容しきれない負傷兵たちは厩舎や野戦礼拝堂にまで満ち溢れた。
ついには、ロシア人居住区の民家にまで収容されるという有様となった。
傷病者の収容された場所には、赤十字旗が掲げられ、残留した軍医二名、赤十字社医師十七名、赤十字社看護婦三十二人が手分けして駆け回った。
参謀長サハロフ中将は、できるだけ多数の傷病兵と物資を輸送するために、可能な限りの列車の手配を、クロパトキン司令官名で関係部局に指示を与え続けた。
午後九時、クロパトキン大将は、虎石台停車場に到着した。
大将は、直ちに副官に命じて、第八軍団長ムイロフ中将に対する命令を発進させた。
田義屯、郭三屯に対する夜襲を決行せよ。
万一、攻略できない場合には、郭三屯の東方に位置する冬常上、小辛屯を固守せよ。
無論、これは総退却路の確保のための措置である。
その命令文を通信室に運んだ副官は、かわりにサハロフ中将からの電文を運んできた。
一読するや、クロパトキン大将の顔色が変わった。
彼は怒気を含んだ表情のまま、駅長室へ走った。

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ツシマ沖の海戦(その三百六十四) The Battle of Tsushima
2007-07-05 Thu 09:36
この大将の決断は、後に大きな批判を招き、大将の解任に至ることとなる。
しかし、この時の大将は、奉天付近での決戦は絶望的であると、判断したのである。
午後五時三十分、大将は同行した副官の一人を選び、奉天へ走らせた。
副官が運んだ訓令書には、次の如く指示されていた。
「一般の情勢極めて危殆なりと認む。各軍共、今夜鉄嶺に向ひ退却を始むべきことを通達せよ」
これは、かねてから準備してある総退却命令を発出せよ、との指示である。
つまり、退却線を虎石台、蒲河、西長に定め、第三軍、第二軍、第一軍の順序で後退する、としたものである。
大将は、サハロフ中将宛ての指示書の末尾に、「退却の擁護として、明十日、自ら総予備隊を率ひ攻勢に転ぜんとす」と、付け加えた。
総司令官自らが、予備隊を直卒して日本第三軍を攻撃して、退路を確保せんとする意気込みを現したのである。
ところが、この大将の企図は既に実現不可能になっていたのである。
例えば、第一軍の退却ルートは、福陵、中水泉、樹林子とそれ以東の地区と指定されていたが、このコースを辿るとなると、第一軍は渾河北岸を西進して、まず指定路に出る必要がある。
しかし、日本軍は既にその中途に進出し、予定退路は遮断されている。
この時点では、その報告は奉天には届いていなかった。
第一軍司令部は、この時、通信手段を失っていたのである。
参謀長サハロフ中将も、無論、第一軍との連絡が途絶した事情は心得ていた。
しかし、その原因が、日本軍進出のためとは夢想もしていなかった。
参謀長は、この日の砂嵐のせいで電柱が倒れ、断線を招いたものであろうと、想像していたのである。

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