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2007-02-13 Tue 00:06
本筋に帰ることにしよう。
いや、その前に本会戦が勃発した経緯についておさらいをしておきたい。 黒溝台の戦いで、兵力の逐次投入の愚を身にしみて覚った日本軍は、それを教訓にして態勢を立て直し、戦闘には全兵力を投入するという基本方針を確認した。 一方、黒溝台の戦いで日本側に一矢を報いて、気を好くしたロシア軍は、再び南方への攻撃を企図した。 そのことを察知した日本軍も、奉天周辺に全兵力を集めて、決戦を挑むことにした。 前にも触れたように、奉天(現瀋陽)は、交通の要衝であった。 詳説すれば、旅順へ連絡する南方線、朝鮮半島の安東へ繋がる東方線、北京へと至る西方線、極東ロシア軍の生命線といえるシベリア鉄道へ連結する北方線の分岐点となっていたのが、奉天であった。 日本軍満州総司令部は、ロシア軍の反撃の芽を摘み取るため、この鉄道要地を一気に攻め落とそうと試みたのだ。 この結果、起こったのが明治三十八年二月二十日から翌三月十日にかけて、極寒の満州の荒野を舞台とした、奉天会戦である。 両軍ともこの戦いが日露陸戦においての天王山の戦いになるであろうことを熟知していた。 日本側は、第一から第四軍及び鴨緑江軍の五個軍、対するロシア側は、主力の六個軍団に、予備二個師団を控えさせていた。 兵力は日本軍二十五万、ロシア軍は三十一万。使用する火砲は、日本軍九百九十門、ロシア軍は一千二百門。 驚くべきことに、日本軍は旅順要塞攻略の立役者となった二十八センチ榴弾砲六門を、この野戦に投入した。 口径二十八センチとは、当時の戦艦の主砲に匹敵する巨砲である。 弾丸重量二百十七キロ、これは三十一年式野砲のそれの約三十六倍に達する。 旅順攻略の決め手となった、十二月五日の二○三高地への突撃前には、この巨砲十八門が揃い踏みし、実に二千三百発の砲弾を敵陣地へ撃ち込んだのである。 From Abiko Business Consultants スポンサーサイト
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