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ツシマ沖の海戦(その二百三十八) The Battle of Tsushima
2007-02-28 Wed 00:32
その頃、ロシア第二軍の左翼、第三軍の右翼を占めるシベリア第五軍団も退却を始めていた。
ただし、この時点では、第三軍に対しては退却命令は出されていなかった。
シベリア第五軍団長は、デムポフスキー中将であるが、馬頭郎をはじめとする第二軍の占領地において、盛んに火の手があがるのを望見して、第二軍が退却するのではと推測した。
やがて、シベリア第五軍団の前線には、疲労困憊したロシアの兵団が退却してきた。
突然、姿を現した彼らは、第二軍第八軍団に属する第十五師団の三個連隊と第十四師団の一個連隊の兵士たちであった。
渾河の東岸を進んでいたが、道に迷ったのだという。
連隊によっては、糧食や弾薬までも途中で捨てて、ここまでたどり着いたものもあった。
デムポフスキー中将は、自軍の右翼に穴が開き、そこから日本軍が侵入することを懸念した。
既に、第二軍に対しては退却命令が発せられていることのを、こノ時点では、中将は知っていた。
彼は独断による退却を決意した。
後方に布陣して、進出してくる日本軍を側面から攻撃する意図を固めたのであった。
中将は、その態勢に必要な右翼の第五十四師団に後退を命じた。
ところが、その退却は直ちに左翼の第六十一師団にも伝わり、同師団は無断で第一線を離れてしまった。
時を少々遡ると、その日の午後六時ごろ、日本の第三軍では、司令官乃木大将は
沙嶺堡に達していたが、第三軍の通信事情は最悪で、自軍の第九師団の状況すら掴みかねていた。

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ツシマ沖の海戦(その二百三十七) The Battle of Tsushima
2007-02-27 Tue 23:18
寄り道をしすぎた。では、三月二日午後九時過ぎの馬頭郎へと戻ろう。
満州軍総司令官クロパトキン大将の電話命令を耳にして、ラウニツ大将は苦笑いを浮かべた。
彼自身が予測したとおりの退却命令であったからである。
第二軍は大祝三堡と蘇湖堡を結ぶ線までに、三日の午前八時までに退却せよとの内容であった。
ラウニツ大将は、渾河西岸に布陣して、彰駅站附近の日本軍と対峙しているゴレムパトフスキー部隊を西岸沿いに撤退するよう下命した。
第二軍主力は、既に渾河東岸沿いに退却を開始していた。
ラウニツ大将の関心は、大王崗堡の第二軍経理倉庫の処分に移った。
同地は、鉄道支線の終点に当たる場所であった。
大将は、兵卒を動員して、砲兵・衛生資材等を貨物車に積み込ませて後送の準備にかからせた。
糧食・衣料等の兵站資材については、焼却を命じた。
列車へのあわただしい積み込み作業の傍らでは、馬糧のために蓄えられ,十メートルの高さにまで山積みされた高粱に火がかけられた。
この夜は、寒気は特に厳しかった。
この時、既に寒暖計は零下二十三度を記録していた。
附近にいた警備兵たちが、集まってきて、この巨大なかがり火で暖をとり始めた。
高粱の山を燃やす炎は夜空を焦がさんばかりに舞い登った。
その様は、あたかも火の城の如き、盛観を呈した。

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ツシマ沖の海戦(その二百三十六) The Battle of Tsushima
2007-02-26 Mon 00:06
榴霰弾とは、弾体に弾子と炸薬を詰めた構造の砲弾である。この砲弾は、砲から射出された後、時限信管を用いて一定の高度で、弾子を一定の範囲に飛散させることによって目標に被害を与えるという性質を持つ砲弾である。
 日露戦争のころの日本陸軍の榴霰弾は、七センチ級の火砲では、約七十乃至八十個、十五センチ級の火砲になると約千個の弾子が詰め込まれていた。弾子は一個十乃至十六グラムのものが使用されていた。当時、この弾子のことを霰弾と呼んでいた。
榴霰弾は、鋼鉄製弾体自体は破裂することなく、炸薬の爆発により、弾子が砲弾の前方に一定の散布角で飛び出す仕掛けになっていた。つまり、榴霰弾が曳火するときは 弾子は破裂点の前方に円錐状に飛散することになる。
この効果により、平坦なる縦深地域に暴露する者に対して最大効力を呈することになる。
これに対して、榴弾の方は、内部に炸薬を充填し弾殻を破砕することで広範囲へその破片を散布するという性質の砲弾である。
榴弾は瞬発信管、短延期信管または複働信管を附着し その信管の種類によって効力が異なってくる。
瞬発信管附榴弾は弾着の同時に破裂し 破片の大部は弾道にほぼ直角方向に飛散する。飛散の形状は落角によって異ることになる。
有効破片は野砲、山砲では 弾着点より約二十メートル、十五榴で約五十メートル、十加約三十メートル、十五加となると約百メートルに達するといわれている。

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ツシマ沖の海戦(その二百三十五) The Battle of Tsushima
2007-02-25 Sun 00:00
万宝山を中心とするロシア陣地へ猛撃を加えた日本軍の火砲は、二百五十余門に及んだ。日本軍としては空前の火力集中を行ったのである。
日本軍は、沙河においての冬営中,営々として貯めに溜めた砲弾を惜しげもなく大消費した。
この日、三月二日だけでも野砲弾約五千発、山砲約三千五百発を発射した。
しかし、万宝山陣地もその附近の側防陣地も依然として健全に機能していた。
日本軍の砲撃の効果が、どの程度のものであったかは、それで知れるであろう。
前述したように、万宝山を攻撃する第十師団の司令部は、遂に師団の全力を挙げて肉薄攻撃をかけた。
しかし、夥しい被害を受けて撤退せざるを得なかった。
さらに、三日、四日と繰り返すうちに多大な損耗を受けるばかりでなく、逆に敵の大逆襲を受ける破目になり、前線各部隊は全滅に近い状態に陥ったのである。
まさに、旅順の二の舞になりかけたのである。
ところで、日本軍はなけなしの銃砲弾をこの会戦にふんだんに注ぎ込んだ。
奉天会戦を通じて、日本軍側の消費した小銃弾は二千万発に上った。
これに対して、ロシア側は、八千万発である。
砲弾に関して、日本側が三十五万発という空前の消費をみせたが、ロシア軍はそれを遥かに上回る五十四万発の砲弾を冬の満州の広野へ轟かせた。
ただ、砲弾に関しては日本側が勝れていたといえる。
日本側の野砲は、榴弾と榴霰弾を装備していた。
ロシア軍は、榴霰弾しか持っていなかった。

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ツシマ沖の海戦(その二百三十四) The Battle of Tsushima
2007-02-24 Sat 00:01
戦争の後半になり、日本兵の素質が低下したのは否めない事実であった。
しかし、それに反して、奉天会戦における日本軍の砲力は充実していた。

作戦が始まってから三日目に至ると、彼我の砲戦はたけなわとなった。
前にも触れたように、ロシア軍千二百門に対し、日本軍千門の火砲が、終日双方の陣地に弾雨を降らせ続けたのである。
もちろん、ロシア側に比べれば、砲数も弾数も劣る日本軍は、大山・児玉の意向により、その火力を重点的に用いようと試みた。
中央を担当した野津の軍に最も大砲が与えられた。
作戦の初期においては、この野津軍は歩兵を留めたまま、もっぱら砲兵が活動した。
奥軍、黒木軍も同様であった。
奉天会戦に使用した日本軍の火砲は、克式十二センチ榴弾砲、克式十五センチ榴弾砲、十五センチ臼砲、十センチ速射加農、十二センチ加農等である。
二十八センチ榴弾砲は、前述したとおり、奉天の会戦でも六門が使用された。
本来、永久土台の上に座り込んでいるはずの、この巨砲が驚くべきことに野戦の場に
出現したのである。
ところで、敵が篭る万宝山は半永久陣地が築かれていたが、地面は表面から一メートルの附近まで凍結して、ペトンのように固くなっていた。
そのため、日本軍の重砲弾は、飛翔音の大きい割には、その砲撃効果は少なかった。
おまけに、鋼鉄不足のため弾体は鋳鉄によって製造されることとなった。
その脆い弾体は、分厚い凍土に跳ね返されて、微塵になって砕けとんだ。
ただ、二十八センチ榴弾砲の飛翔音は、ごうごうと天空にこだまし、ロシアの兵卒の心胆を震え上がらせた。
一方、その異様ともいえる音響は、日本の士卒を甚だしく鼓舞し、特に万宝山に突撃せねばらない第十師団の兵員は、「日本にもこのような巨砲があるのか」と狂喜したほどであった。

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社保庁廃止後の名称は「日本年金機構」と決まる。
2007-02-23 Fri 00:37
社会保険庁改革関連法案で、社保庁を廃止する代わりに新設する非公務員型の公法人の名称を「日本年金機構」とすることが決まりました。
全国にある社会保険事務所の名称は「年金事務所」と改められます。
政府は、法案を3月10日ごろに国会へ提出する方針だそうです。

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ツシマ沖の海戦(その二百三十三) The Battle of Tsushima
2007-02-22 Thu 00:00
少々、横道にそれることになるが、一度復習をしておきたい
日本満州軍の総司令官は、大山厳であり、それ補佐する総参謀長は児玉源太郎である。
麾下の満州派遣軍は、以下の五つに区分されていた。
すなわち、黒木為の率いる第一軍、奥保鞏の第二軍、乃木希典の第三軍、野津道貫の第四軍及び川村景明の鴨緑江軍である。
対するロシア極東軍の編成は、総司令官はクロパトキン大将、参謀長はサハロフ中将である。隷下の兵力は、シベリア第一から第五軍団に加えて第十軍団及び第十七軍団、それに予備兵力として第一軍団と数個の支隊と派遣隊が後置されていた。
師団数で比較すると、奉天会戦時の日本陸軍五個軍、十四個師団、ロシア軍は七個軍団、十四個師団、兵力にすると日本軍二十五万、ロシア軍三十一万が春なお遠い満州の荒野で死闘を展開したのである。
一つ付け加えておくと、この戦いでは、日本軍は後備歩兵第一旅団、後備歩兵第十五旅団も第一線に投入している。
ちなみに、後備の意味は、後方に配置され、占領地の管理・守備等を担当するものというほどのことであり、戦力も通常の旅団の三分の二、兵員の年齢も高い。
兵力不足が明らかな日本陸軍は、この後備を前線に投入せざるを得なかったのである。
「後備はなんの役にもたたない」と、総司令部付の参謀松川敏胤が罵ったとい話が残っているが、後備の招集将校のうちには五十台の大尉すらもいたのである。
例えば、鴨緑江軍の第一後備師団は、老兵揃いであり、訓練も行き届いてなかった。
この師団は、編成されてから僅か百日目に満州へ引き出されて、偶然とはいえ、奉天会戦の口火を切る戦いをさせられた。
しかし、それは現役師団についても同様であった。
初期のころは、ことごとく現役兵で編成されていたが、死傷が相次ぐたびに、その補充として応召兵が当てられた。
若いある中尉も、「かかる烏合の衆に等しい三ヶ月教育の補充兵が、我が軍の大半を充たして居る」と嘆いているほどである。

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ツシマ沖の海戦(その二百三十二) The Battle of Tsushima
2007-02-21 Wed 00:29
日没後、ロシア第二軍ではさらなる混乱が生じた。
それは馬頭郎での椿事がきっかけとなった。
ロシア第二軍司令部付ラウニツ大将は、ゴレムバトフスキー少将の部隊を見送ってから、馬頭郎への帰途についたが、大将は、一歩同地に足を踏み入れたとき、思いも寄らぬ光景に出くわして、唖然として立ちすくんでしまった。
傍らに佇む参謀長エイフゴリツ少将も言葉がなかった。
集落の南端に位置する馬糧倉庫が盛んに燃え上がっているのである。
炎は夜空を焦がすばかりの勢いで巻き上がり、煤煙は辺りに立ち込めていた。
高粱、麦、米等の大量の馬糧が灰燼に帰しつつあった。。
早速、大将らが問いただすと、その返事は、経理官が退却命令を予想して早めに放火したとのことである。
確かに、馬頭郎のその日の状況は、騒然としたものであった。
そこを通過していく退却兵の姿は多く、第二軍司令官カウリバルス大将も沙嶺堡へ向けて立ち去ったままで、帰ってくる様子もない。
敗色濃厚な馬頭郎の空気が、経理官の誤断を誘い出したものであろうが、ラウニツ大将は白いものの混じった口髭を震わせながら叱責した。
「貴官のなしたことは、狩人の足音に逃げる兎に似た狼狽ぶりさながらである。」
更に、同大将は、「このままでは日本軍の目標になる。早く消せ」と、怒鳴った。
悪いことに、馬頭郎の「放火」は各所に伝染した。
これ退却の合図と信じた、北方の大王崗堡の経理倉庫に火の手があがった。
続いて、東方の水羅堡台の経理倉庫からも炎が立った。
やがて、その火は弾薬庫に引火して、銃砲弾の炸裂音が夜空に轟いた。
おまけに、退却兵の中には、面白半分に民家に次々と放火する者まで現れて、混乱に拍車をかけた。
「この大かがり火は、奉天への退却路を照らしているようだ」
ラウニツ大将は、天を仰いで嘆声を漏らした。

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ツシマ沖の海戦(その二百三十一) The Battle of Tsushima
2007-02-20 Tue 04:01
日本第十一師団の攻撃の矛先は、龍王廟嶺にも向けられた。
龍王廟嶺は救兵台の北東に位置するが、さらに北東にあった後備第一師団も攻撃を再開した。
龍王廟嶺の守備に当たっていたのは、ザバイカル騎兵師団に所属する第二旅団であった。
同旅団は力戦して、正面の日本軍を撃退したが、西側に位置する四百十九高地の占領を許してしまった。
また、後備第一師団の攻撃を受けた、シベリア第三軍団第六旅団は、死傷者千五百余名という甚大な損害を出しながらも、反復する日本軍の攻撃を跳ね返し、よく持ちこたえた。
一方、レンネンカンプ支隊の右翼に当たる石痘大嶺は、同支隊指揮下のバチンスキー少将の率いるシベリア第一軍団集成旅団が占拠していた。
支隊指揮官レンネンカンプ中将は、バチンスキー少将に対して、三龍峪に進撃するように命じた。
同地は石痘大嶺の南東に位置し、この時、日本第十一師団の司令部が置かれていた場所である。
ところが、少将からは命令に応じられない、という意外な返事が返ってきた。
「当隊は、総司令官の命により奉天方面に転進せんとす」
レンネンカンプ中将が激怒したのは当然のことである。
「貴官が云う総司令官命令なるものは、本職は関知せず」
「請う。総司令部に照会されんことを」
「不要なり。貴官は、本職の指揮下にあり。本職自身の命令に服するが義務なり」
「そもそも当隊は、貴職とは別の指揮系統に属し、総司令官命令により派遣されたるものなり」
このような戦陣においてはあるまじき、不毛なやりとりが延々と二十分にわたり繰り広げられた。
最後は、互いに受話器を叩きつけ、会話を終えたが、その後バチンスキー少将は兵をまとめてさっさと前線を離脱していった。

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ツシマ沖の海戦(その二百三十) The Battle of Tsushima
2007-02-19 Mon 00:03
第三大隊長長屋少佐は、兵を叱咤激励し、じりじりと敵陣に接近させた。
時を図って、突然、突撃を命じた。
その勢いに恐れをなしたるロシア守備兵は、算を乱して北方へと潰走した。
第二十九連隊も追撃する余力を残しては居なかった。
同連隊は敵兵ガ放棄した角面堡内に留まり、数度にわたる逆襲を撃退した。
しかし、殆どの幹部を失ったため、統一した指揮系統が乱れたのはやむを得なかった。
隊伍は混乱し、死傷者もますます増えてきた。
連隊の将兵はこの六日間ほとんど眠らず、連戦に耐えてきた。
弾薬も次第に欠乏してきた。
何よりの悪条件は、連隊長の島田大佐の戦死という事実であった。
しかも、前日には第四連隊長の河内中佐が負傷して戦線を離脱している。
高級指揮官の相次ぐ死傷は、兵員の士気を低下させた。
兵士たちの神経は極度に昂ぶっていた。
日没後、味方の斥候が帰ってきた足音に驚き、敵襲と叫んで誰かが発砲すると、直ちにそれに呼応する発砲音があちこちから起こった。
では、東部戦線はどうか。
鴨緑江軍第十一師団は、救兵台への攻撃を繰り返し、その地を守るザバイカル騎兵師団の支隊を悩ませていた。
同師団の主力は、救兵台の西方高地を攻撃し、シベリア第五軍団第七十一師団の守備兵を追い払い、同高地を占領した。
第七十一師団長アリエフ少将は、手元の将兵をかき集めて反撃した。
少将は、手勢を率いて軍楽隊に国歌を演奏させながら進撃し、高地の一部を奪回した。
日本軍は、この部隊に対して攻撃をかけてきたが、守備兵の一部は退却したが、踏みとどまった兵士たちは味方の死体の陰に隠れて、懸命に射撃を続けた。

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ツシマ沖の海戦(その二百二十九) The Battle of Tsushima
2007-02-18 Sun 00:39
一方、中部戦線では、万宝山攻撃で第四軍がてこずっていた。
第十師団では、第二十旅団第二十連隊が再び万宝山に迫り、南麓の敵前二百メートル辺りまで接近したが、力攻もそこまでであった。
旅団長今橋知勝少将が負傷したため、攻撃は中止されることとなった。
この日の第四軍の損害は甚大であった。
死傷者は四千百二十一人にのぼり、特に第十師団と後備第十一旅団が千名を超える損害を出している。
ロシア軍の中央部は、殆ど要塞化されていた。
特に、万宝山、塔山とその附近のこれは低地にある柳匠屯などは、その代表的なものであった。
天険に篭った砲はことごとく掩蓋を被り、麓には鉄条網で囲われた壕が張り巡らされ、近接する日本兵を機関銃で狙い撃ちした。

では、第一軍はといえば、午後も近衛師団、近衛後備混成旅団、第十二師団ともに前進を阻まれていた。
高台嶺地区に展開した第二師団も、わずかに第二十九連隊だけが第二十角面堡に対して、攻撃を再開した。
第二十九連隊長は島田繁大佐であったが、大佐は第三大隊長長屋竹緑少佐に三個中隊を率いての攻撃を命じた。
攻撃は困難を極め、第五中隊に至ってはほぼ全滅という惨状を呈した。
他の各中隊も兵力は半減した。
連隊長島田大佐は、更に二個小隊を投入したが、その三分の二が死傷した。
責任を感じた島田連隊長は、第一線に赴いて指揮をとったが、やがて敵弾に斃れた。
島田大佐の戦死を知った、連隊副官代理石川正雄中尉は、憤然として第三中隊を前進させた。
この命令は、石川中尉の独断専行であったが、左翼に展開していた第四連隊長代理神戸少佐は第七、第八中隊を増援させて、それに応じた。

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 社保庁廃止、新法人設立は2010年1月の予定
2007-02-17 Sat 08:59
政府が今国会に提出する社会保険庁改革関連法案によると、社保庁の廃止と新法人の設立は、2010年1月となる予定だそうです。
社保庁を廃止する代わりに新設する非公務員型の公法人の名称については、「日本年金センター」「日本年金機構」などの案が挙げられています。
 法案は、社保庁廃止に伴い、公的年金に関する業務を新法人が引き継ぐ一方で、可能な限り業務を民間企業へ外部委託し、効率化すると述べています。
なお、現在の社保庁職員に関しては、〈1〉非公務員となって新法人へ再就職する〈2〉厚生労働省の他部署や他省庁へ転任する――などの選択肢を示し、拒否したり、新法人で不採用となったりした職員については、「分限免職」もありうるとしています。

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ツシマ沖の海戦(その二百二十八 The Battle of Tsushima
2007-02-17 Sat 00:00
ゴレムパトフスキー少将は、第六十、第二百四十一連隊を朴坨子の攻撃に向けさせ、残りの第五十四、第二百十五連隊を彰駅站へと前進させた。
ロシア軍の攻撃は、午後六時少し前から開始された。
朴坨子にあった第九師団主力は、接近してくるロシア二個連隊を目掛けて、砲弾と機銃弾の雨を降らせた。
ロシアの、第六十、第二百四十一連隊はなす術もなく後退した。
しかし、彰駅站では悲劇が起こった。
指揮官である第三十六連隊第一中隊長代理吉村操中尉は、東側から押し寄せてくるロシア軍部隊に発砲を命じた。
ところが、応射してこないので、友軍だと思い慌てて射撃を中止させた。
これが、致命傷となった。
敵が四百メートルにまで迫ったとき、吉村中尉は、それが始めてロシア兵であることを確認した。
急報を受けた第十八旅団長平佐良蔵少将は、第三十六連隊第二大隊を救援のために彰駅站へ急がせた。
同時に、第九師団長大島久直中将も、隷下の第十九連隊、第七連隊第二大隊を急派した。
だか、午後六時三十分、第三十六連隊第二大隊が村落の東南四百メートルの附近にまで達したとき、彰駅站を守っていた第三十六連隊第一中隊は、吉村中尉以下、生き残りの兵は最後の突撃を行い、全滅していた。
その時期、第十九連隊第三大隊も、彰駅站から千メートルの地点にまで到達していた。
両大隊共にさらに前進を試みたが、彰駅站を占領した敵の銃火に阻まれるとともに、丁度日没を迎えたため、敵前二、三百メートル附近で前進を中止せざるを得なくなった。

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ツシマ沖の海戦(その二百二十七 The Battle of Tsushima
2007-02-16 Fri 00:00
同時刻、沙嶺堡に向かったロシア第二軍団司令官カウリバルス大将から第二軍団主力の指揮を任された軍司令部付ラウニツ大将は、双樹屯南方の丘に登り、敵情を観察していた。
ラウニツ大将の双眼鏡には、西方の朴坨子附近に日本軍の騎馬斥候の姿が捕らえられた。
眼を凝らして眺めると、後方からは大部隊が北進しているのが認められた。
進軍してきたのは、林家台へ向かう第三軍所属の第九師団であった。
「ハラショー」
白い大きな髭に覆われたラウニツ大将の顔には、会心の笑みが浮かんでいた。
第九師団の東側に当たる双樹屯には、ロシア第八軍団所属のゴレムパトフスキー少将率いる部隊が待機していたのである。
日本軍の運動から推察すると、明らかに双樹屯のロシア軍の存在に気づいていない。
奇襲をかければ、成功は疑いなかった。
「オーチン・ハラショー」
大将は再び満足げに呟いた。
大将は、「日本軍をこの戦線より撃退せよ」と、ゴレムパトフスキー少将に命じた。
それに応じて、少将は指揮下の四個連隊を前進させた。
それを見届けたラウニツ大将は、馬頭郎へ引き上げていった。
午後五時三十分、第九師団の先頭部隊である第三十六連隊第一中隊が彰駅站を占領した。
しかし、師団主力は、まだ朴坨子附近にあった。

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ツシマ沖の海戦(その二百二十六 The Battle of Tsushima
2007-02-15 Thu 00:11
遼河平原は、遼河およびその支流の沖積によって形成され、地勢は平坦である。
広漠たる荒野と農地の中に小さな集落が点在している。
日本軍は、ロシア軍が篭るそれらの村落を一つ一つ潰しながら北上していったのである。
..ところで、周官堡はロシア第二軍第八軍団の守備範囲であったが、第八軍団長ムイロフ中将は、周官堡が日本軍第八、第五及び第四師団に三面から包囲されていることを知り、守備隊に退却を命じようと決心した。
中将は、このまま放置すると守備隊の後退も不可能になると考え、退却援護部隊として、馬頭郎に終結している四個連隊を北西の双樹屯に移動させた。
馬頭郎にはロシア第二軍の司令部が置かれていたが、附近には、既に日本軍の砲弾が落下し始めていた。
日本軍の第四師団の正面の敵は、ロシア第十軍団であった。
指揮を執っていた第三十一師団長ワシリエフ少将が、北方に展開中の第二旅団の指揮ために去った後は、代わって第百二十二連隊長ミュルレル大佐が同師団の指揮に携わった。
彼は日本軍が宝相屯及び二台子に攻撃をかけていることの報告を受けた。
午後四時に至って、激しさを増した日本軍の砲撃により、第二軍司令部の電話線は切断された。
やがて、第十軍団命令が伝令騎兵によってもたらされた。
田水堡附近にまで後退せよ、との内容である。
田水堡とは宝相屯の北方に位置する小村落である。
ミュルレル大佐は、宝相屯及び二台子を守備する、第百二十一、第百二十二連隊に日没を待って退却することを命じた。

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ツシマ沖の海戦(その二百二十五 The Battle of Tsushima
2007-02-14 Wed 00:08
旅順が終わった後、奉天会戦を立案する席上で、「旅順をやったあの大砲を使おう」と、提案したのは児玉源太郎対大将であった。
彼は参謀たちの疑問の声など、歯牙にもかけぬ風情で、計画を実行に移した。
関係する砲兵と工兵の努力により、ともかくも、奉天正面の山間にこの巨砲六門が、腰を据えた。
日本軍は、戦線の東側から鴨緑江軍、第一軍、第四軍、第二軍、第三軍と布陣し、ロシア側も横一線となり、これに対峙した。
既述したように、日本軍は戦線の左右で揺さぶりをかける陽動作戦に出た。
ロシア満州軍総司令官クロパトキン大将は、日本側の動きに翻弄され、予備軍を右往左往させたが、主力は堅固な陣地を築き、日本軍の猛攻に耐えようとした。
前に触れたように、日本軍は三月一日から、総攻撃にかかった。
一日に一万発の支援砲撃とともに、敵陣地に迫ったが、これを予想していたロシア軍は猛烈な反撃に出て、日本軍第一、第三軍の出鼻を挫くことに成功した。
三月二日、午後三時過ぎ、第二軍は退却する敵を追って前進した。
隷下の第八師団は、所属する第三十二連隊が王秀台へ占領し、第五連隊はその北方の小叭拉堡子を陥れた。
第五師団は、その第四十一連隊が、周官堡を攻めたが敵の抵抗に手こずった。
ただし、その右翼として進んだ第四師団は、金山屯を攻め落とした。
王秀台は渾河の西岸にあり、ロシア第二軍第八軍団の守備する周官堡は渾河の東岸に位置している。
遼河は、満州南部を流れる大河であるが、渾河はその最大の支流である。現在の瀋陽市にあっては、渾河は十キロにわたって市内を横切り流れている。
瀋陽は遼河平原と長白山脈との境に位置し、西部は広漠とした大平原で、東部は山地である。

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ツシマ沖の海戦(その二百二十四The Battle of Tsushima
2007-02-13 Tue 00:06
本筋に帰ることにしよう。
いや、その前に本会戦が勃発した経緯についておさらいをしておきたい。
黒溝台の戦いで、兵力の逐次投入の愚を身にしみて覚った日本軍は、それを教訓にして態勢を立て直し、戦闘には全兵力を投入するという基本方針を確認した。
一方、黒溝台の戦いで日本側に一矢を報いて、気を好くしたロシア軍は、再び南方への攻撃を企図した。
そのことを察知した日本軍も、奉天周辺に全兵力を集めて、決戦を挑むことにした。
前にも触れたように、奉天(現瀋陽)は、交通の要衝であった。
詳説すれば、旅順へ連絡する南方線、朝鮮半島の安東へ繋がる東方線、北京へと至る西方線、極東ロシア軍の生命線といえるシベリア鉄道へ連結する北方線の分岐点となっていたのが、奉天であった。
日本軍満州総司令部は、ロシア軍の反撃の芽を摘み取るため、この鉄道要地を一気に攻め落とそうと試みたのだ。
この結果、起こったのが明治三十八年二月二十日から翌三月十日にかけて、極寒の満州の荒野を舞台とした、奉天会戦である。
両軍ともこの戦いが日露陸戦においての天王山の戦いになるであろうことを熟知していた。
日本側は、第一から第四軍及び鴨緑江軍の五個軍、対するロシア側は、主力の六個軍団に、予備二個師団を控えさせていた。
兵力は日本軍二十五万、ロシア軍は三十一万。使用する火砲は、日本軍九百九十門、ロシア軍は一千二百門。
驚くべきことに、日本軍は旅順要塞攻略の立役者となった二十八センチ榴弾砲六門を、この野戦に投入した。
口径二十八センチとは、当時の戦艦の主砲に匹敵する巨砲である。
弾丸重量二百十七キロ、これは三十一年式野砲のそれの約三十六倍に達する。
旅順攻略の決め手となった、十二月五日の二○三高地への突撃前には、この巨砲十八門が揃い踏みし、実に二千三百発の砲弾を敵陣地へ撃ち込んだのである。

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ツシマ沖の海戦(その二百二十三The Battle of Tsushima
2007-02-12 Mon 00:12
次にロシア側の野砲について触れておこう。
我が国が速射砲を採用すると、それを知って慌てたロシアは、三インチ速射野砲を採用した。制式年度は西暦千九百年である。
M1900型野砲と呼ばれ、日露戦争全期間にわたってロシア陸軍の主力野砲として活躍した砲がこれである。
構造的にはシュナイダー社の野砲を真似たもので、単箭型砲架内に復座発条が取り付けられているのが特徴となっている。
諸元は、次のとおりである。
口径:76.2㎜、初速:588m/秒、射程:8,000m、射速:15発/分、重量:1.1トン。砲身長:2.4m、有効射程:5.500m。
この砲は、日本の三十一年式に遅れること二年で誕生したが、当時の野砲発達の速度から見て、この二年の隔たりは、いかにも大きかった。
制退器がついているため、日本のものと比較して、発射速度が格段に違った。
ちなみに、制退器とは、発射時の反動を抑えるための緩衝装置である。
ついでのことながら、小銃にも触れておく。
日本軍が使用した小銃は、三十年式歩兵銃一種類であったが、ロシア側は、ナガント、リエーエンの二種類を用いた。
日露いずれの銃も装弾数五発のボルト・アクションである。
口径はロシア軍のものは7.62mmであり、対する日本軍のそれは6.5mmであった。
最大射程は三十年式歩兵銃が2.560m、ナガント小銃2.000m、リエーエン小銃2,600mとなっている。
では、機関銃の方はどうかといえば、この当時の日露双方とも国産化できていなかった。
日本軍が使用したものは、保式と呼ばれたフランス製であり、給弾方式として「保弾板」方式を用いていた。
保弾板方式とは、保弾板と呼ばれる物の上に三十発の弾ガを並べて薬室に送り込む方式で、ベルト式に比べて故障が少なかった。このため、日本軍は以後、この方式に固執することになった。
ロシア側は、ドイツ製のマキシムとデンマーク製のマドセンを採用していた。
マキシムはベルト式の給弾であり、マドセンは二十五発弾倉方式をとっていた。
口径は双方とも小銃のそれと同じであった。
したがって弾丸重量、最大射程ともにロシア側が勝っていた。
機関銃は両軍にとって貴重品であり、敵味方六十万の兵士が対峙した奉天会戦においても、日本軍の所有数は二百六十八挺、ロシア軍のそれは五十六挺に過ぎなかった。

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ツシマ沖の海戦(その二百二十二The Battle of Tsushima
2007-02-11 Sun 00:06
余談を続ける。
日露戦争で使用された日本軍の野砲は、三十一年式と呼ばれるもの一種類である。
正式には三十一年式速射野砲と称されるこの砲は、日清戦争後に欧米で起こった速射砲熱に煽られての産物であった。
我が国も紛糾する東洋の形勢に鑑みて、軍備の拡張と兵器の革新を図る必要に迫られていたことと相まって、一挙に速射砲の採用に乗り出したのである。
陸軍は欧州の兵器メーカー、ホッチキス、アームストロング、クルップ、カネー、ダルマンシュー及びシュナイダーの各社から試験的に速射野砲を輸入した。
それと、同時に国内においても、東京砲兵工廠提理有坂成章大佐、砲兵会議審査官秋元盛之中佐、大阪砲兵工廠火砲製造所長栗山勝三少佐がそれぞれ考案した試製砲各一門が製作された。
これらの速射野砲は、明治二十九年九月から、翌三十年十月までの一年間にわたり比較実験が大々的に実施された。
試験の結果は、有坂式が最も優秀な成績を収めたが、三年後にシベリア鉄道が開通するまでに兵器の刷新を図るためには、外国製の優良なる火砲を採用して、直ちに数百門を購入すべきである、という意見が勝ちを占めた。
陸軍当局は、新火砲の整備を急ぐために、シュナイダーとクルップに製造を依頼した。
完成したものから、順次各隊に配備を急いだ。
後には半製品を輸入し、国内でこれを完成させ、三十六年二月までに全軍の配備を完了した。
同砲の諸元は次のとおりである。
口径:75㎜、初速:488m/秒、射程:7,750m、射速:7発/分、重量:0.91t。砲身長;2,2m。
なお、三十一年式野砲は、初の無煙火薬使用砲として有名である。
射程に関しては、当初6,200mであったが、砲架を改修して射角を増し、遠距離用履板を付けて、射程において勝っていたロシアの野砲に対抗した。
ところで、この砲には簡単な複座装置しか備えられていなかった。
そのため、、発射の反動で砲架が後退して、砲自体が跳躍してしまうという欠点を有していた。一発発射するごとに、人力で砲架を元に戻してまた照準をやりなおさなければならなかった。
つまり、速射砲とは名ばかりで、実際の射撃速度は1分間に二発程度と、あまり速いものではなかった。

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ツシマ沖の海戦(その二百二十一The Battle of Tsushima
2007-02-10 Sat 00:25
午後二時三十分、ロシア軍第二十五師団の沙嶺堡に対する攻撃が開始された。
第一師団右縦隊が到着した直後のことである。
まず、一個大隊ほどの兵力が正面から、つづいて左側から三個大隊が攻めかかってきた。
南方の弓匠堡子に陣を敷いていた第七師団砲兵が、正面のロシア第九十五連隊を砲撃し、行き足を止めさせた。
左側から攻め寄せてくるロシア第九十八連隊は、兵力を増やしながら前進を続けている。
右縦隊を指揮する馬場少将は、部下に敵を八百メートルにまで引き寄せるまで、発砲を禁じた。
午後三時二十分、小銃と機関銃の斉射を行い、ロシア軍の足を停めさせたが、敵は退却することなく応射してきた。
右縦隊が、三方から熾烈な銃砲撃を受けて、進退に窮していた頃、第一師団の左縦隊は、七公台を経て、旧鉄道堤東側にまで進出していた。
第七師団長大迫中将は、ロシア二十五師団の出現を知り、予定した張士屯進撃を諦め、その一部を徳勝営子の西北丘に前進させるに留まった。
ここでやや余談となるが、師団とは陸軍の常備兵団としての最大単位である。
師団の兵数は一万人程度であり、師団の下に旅団があり、更にその下には、連隊、大隊がある。
日本は、十三個師団と後備七師団の兵力でもって日露戦争を始めた。
兵数にすれば二十万余である。
これに対するロシアの常備兵力は、二百万であった。

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ツシマ沖の海戦(その二百二十THE Battle of Tsushima
2007-02-09 Fri 00:52
しかし、雪に覆われた斜面に伏せて、瞰射を受けて被害を蒙る環境は前日と同様であった。
第五中隊長武田正助中尉が喉に貫通弾を受けて戦死し、同中隊の士気は大いに衰えた。
しかし、なんとかして、第十九号角堡前面の高地までたどり着いた同中隊は、そのまま攻めれば第十八号角面堡からの側射を受けるし、第十八号角面堡に向かえば、第十九号からの射撃で、背後から撃たれ、立ち往生した。
神戸少佐は、連隊副官多聞二郎大尉と協議して、暫くの様子見を図った。
一方、東部戦線では、鴨緑江軍所属の後備第一師団は、体力が尽きたかのように立ち止まってしまった。
第十一師団も、その主力が救兵台、竜王廟嶺を攻撃したが、はかばかしい戦果はあげられなかった。
午後になると、西部戦線では、日本第三軍の東進につれて、ロシアの第二軍が退却するする現象が交錯して現れた。
第三軍の第一師団の先頭が、午後一時三十分、沙嶺堡に侵攻した。
第七師団の前衛も、四台子に入り、退却中の敵を大いに追撃した。
午後二時に至り、第七師団長大迫尚敏中将は、孤家子に進出して、第三軍司令官乃木大将と第一師団長飯田俊助中将に、師団を徳勝営子に進出をすることを報告した。
同じ頃、ロシア軍第二十五師団が、沙嶺堡の東方に位置する旧鉄道堤に到着した。
同師団は、沙嶺堡が友軍に焼き払われ、既に日本軍が進出しているを知らずに、同所に宿泊する予定で行軍を重ねてきていた。
事情を知った、師団長プネフスキー中将は、直ちに第九十五連隊及び第九十八連隊に、沙嶺堡攻撃を命じた。

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ツシマ沖の海戦(その二百十九)THE Battle of Tsushima
2007-02-08 Thu 00:00
両連隊は、午前九時半ごろ、降りしきる雪の中に紛れて前進した。
しかし、午前十時ともなると雪が収まり、そのとたんにロシア側が猛射を浴びせてきた。
降りしきる弾雨の中を、先頭を切って前進していた第十三連隊長吉弘鑑徳大佐が負傷したため、同連隊の攻撃は一時中止された。
右翼を担当した第十師団は、第八旅団第十連隊が柳匠屯、第二十旅団第二十連隊が、万宝山を目指して突進した。
敵の銃火は激しく第十連隊は、連隊長西村貢之助中佐が負傷した。
第二十連隊も万宝山の南麓間でたどり着いたが、両連隊とも攻撃は頓挫した。
第四軍司令官野津道貫大将は、第六師団方面からの側方攻撃に切り替えることを決心した。
ところで、第一軍はといえば、東から近衛師団、近衛後備混成旅団、第十二師団、第二師団という配置であり、その当面する敵は、ロシア第一軍であった。
この日の朝方は、第二師団だけが前日に引き続いて高台嶺附近の山地の堡塁に攻めかかった。
攻撃部隊は第三旅団であるが、地形も敵情も不明のままの力攻めであるため、雪に覆われた斜面をよじ登る日本兵たちは、ロシアの瞰射を受けて被害は続出した。
右翼を担当した第二十九連隊は、攻撃部隊である第二大隊のうち、第五、第七中隊の全将校が死傷する損害を受け、午前十時ごろには、攻撃中止の已む無きに至った。
第四連隊の主力も第十八、第十九角面堡を目標としたが、指揮は前日負傷し後送された連隊長河内礼蔵中佐に代わって、第二大隊長神戸次郎少佐がとった。

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ツシマ沖の海戦(その二百十八)THE Battle of Tsushima
2007-02-07 Wed 00:24
両師団ともに順調に進撃した。
午前十時ごろ、第七師団は敵の騎兵団六、七百騎がはるかかなたを東進する姿を認めた。
パウロフ少将の率いるウスリー騎兵師団第一旅団である。
彼らは日本第三軍の迂回運動を知り、その東側を警戒前進していたが、戦闘を交えることなく、そのまま雪煙を上げて姿を消していった。
第七師団の右側衛を務める前衛騎兵隊は、午前十一時五分、狐家子に到着し、さらに駆けて東の四台子まで前進した。
同隊は、四台子から沙嶺堡へと延びるロシアの電信線を切断した。
同時刻、第一師団の右縦隊は、沙嶺堡保西南約四キロの地点に到達していた。
そこで、先発した騎斥候からの「沙嶺堡の敵騎兵が同村に放火し退却した」という報告を受けた。
右縦隊指揮官である第一旅団長馬場命英少将は、「第一師団の名誉である」と大声を発し、沙嶺堡への進撃を命じた。
その時期、中部戦線では、第四軍が苦戦中であった。
第四軍は、前夜の軍命令に従い、第六師団が沙河堡を攻め、第十師団が万宝山を攻撃した。
第六師団の相手はシベリヤ第六軍団、第十師団の当面の敵はシベリヤ第一軍団であった。
第六師団は第十一旅団の第四十五、第十三連隊を選び、攻撃部隊を編成した。

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ツシマ沖の海戦(その二百十七)THE Battle of Tsushima
2007-02-06 Tue 00:12
ロシア満州軍総司令官クロパトキン大将は、日本第三軍の攻撃は、陽動攻撃であると推断した。
彼は第二軍カウリパルス大将に打電した。
「主敵は、貴軍の北方に在り。貴軍は、可能な限り目前の敵を牽制し、我が企図を覚るらしめざるよう努め、迅速に兵力を後方に展開するを要す」
大将は自室に参謀長サハロフ中将と参謀副長エウェルト少将を招きいれ、彼が主敵とみなす日本第三軍の企図について検討した。
サハロフ参謀長は、日本第三軍の狙いを、こう推断した。
「新民府・奉天街道を遮断すると共に、同街道を利用して北西から奉天へ突進するものと思われる」
参謀副長もそれに同意した。
しかし、大将は疑義を呈した。
「日本軍の目標が奉天であることは明白である。であるとすれば、乃木の第三軍は新民府・奉天街道にまで進出する必要はない。途中で東へ進み、真横から奉天を突くほうが有効であろう」
では、どこが日本第三軍の突破点となりうるのか、中将が反問した。
大将は長い指で机上の地図の一点を指し示した。
奉天西方の沙嶺堡附近である。
そして、前日に高力屯に進出した第二十五師団と第十軍団から二個旅団を引き抜き、沙嶺堡へ向かわせることを命じた。
クロパトキン将軍の着眼点は適切であった。
第三軍司令官乃木大将は、まさに第一、第七師団を沙嶺堡附近で東進させつつあったのだ。
第三軍の主力は、長灘・新民府街道を北上して来たが、火石崗子の北方附近から第一師団を北、第七師団を南に位置させ、東に向きを変えさせたのである。

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ツシマ沖の海戦(その二百十六)THE Battle of Tsushima
2007-02-05 Mon 01:42
ところで、奥保鞏大将が率いる第二軍の戦況は既に好転していた。
一旦、攻撃中止を総司令部に報告したが、そのあと第四、第八師団の要望により、両師団の攻撃続行是認したのである。
第八師団に対抗するロシア軍は第八軍団、第四師団のそれは第十軍団であった。
両軍団とも昨夜の日本軍の夜襲により足元を揺らがされていた。
第八軍団長ムイロフ中将は、再度の攻撃を受けたら持ちこたえられない旨の報告を第二軍司令官カウリパルス大将に伝言済みであった。
第十軍団長ツェルビッキー中将も自軍の状況が危険な状態にあることを悟っていた。
ロシア軍団は、第二軍の命令により指揮下にある兵力から旅団単位の兵員が抽出され、日本軍との戦闘中にかかわらず、前線から離れていたのである。
金山屯を守っていたのはロシア第三十一師団第一旅団の第百二十一連隊であり、その北西の二台子には、第百二十二連隊が配備されていた。
この二つの地点の中央辺りの荒地には、第八軍団第十五師団第五十六連隊第一大隊が守っていた。
日本第四師団は、このロシア側の弱点に大攻勢をかけた。
一方、第五師団もこの荒地の西の方角にある北台子に猛砲撃を加えた。
荒地を守備していた第一大隊長は、第十五師団長イワノフ中将に退却を求めた。
中将はその要請を即諾した。
守備隊は二台子に退却した。
さらに、ロシア軍第三十一師団長ワシリエフ中将は、午前六時、第一旅団に退却命令を発した。
ロシア側の動揺は、直ちに日本軍に察知された。
第四師団は全戦線において、追撃態勢に移り、午前七時、北台子と例の荒地を占領した。
敵の退却に乗じて第五師団も前進し、その勢いは長灘に布陣するロシア第八軍団の守備兵の退却を誘った。
第二軍司令官奥大将は、午前九時三十分、配下の各師団に進撃命令を発した。
一方、ロシア軍第十軍団長ツェルビッキー中将も、ほぼ同時刻、「戦略的後退は陣地を保持しつつ実施するを要す」とし、後方陣地の守備を固めることを命じた。

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ツシマ沖の海戦(その二百十五)THE Battle of Tsushima
2007-02-04 Sun 00:12
両軍とも前進を急げば、敵に付け込まれるという悩みを抱きつつ、展開を図った。
満州軍総司令部と、第三軍とは午後二時、回復した電話線を用いて連絡が再開された。
この電話連絡により、満州軍総司令部は、第三軍の正確な現在位置を掴んだ。
一方、乃木の第三軍も、主力と離れてしまった第九師団が四方台を占領したことを知らされた。
更にね第二軍の攻撃が進展し、その前面の敵が後退を始めていることを通報された乃木大将は、激しく反応した。
指揮下の第一、第七及び第九師団に敵の退却を蹂躙せよ、との命令を下した。
しかし、総司令部はこの勇壮な乃木の下令に疑義を呈した。
同じ第三軍でも、第九師団は、第二軍の左翼と連結して運動しているわけである。
したがって、現状でも北進中の第七師団との間には、約十キロの隙間が生じている。
もし、第一、第七師団が急進すれば、ますますその間隙は広がり、更には両師団が孤立するおそれも生じかねない。
おりから、総司令部は、第二軍の司令部からの、第五師団の夜襲が失敗したので、第八、第四師団の攻撃を控えるという報告も受けていた。
総司令部は、参謀田中国重少佐に命じて、第三軍に翌日の進撃を見合わせるよう提案させた。
電話に出た第三軍参謀副長河合操中佐は、第三軍司令部も主力と共に前進している、いまさら停止するのは将兵の士気を低下させる、と強く反対した。
遂に、総参謀長児玉源太郎大将が自ら電話に出て、第三軍参謀長松永正敏少将に、第三軍主力の急進を一日だけ延期してはどうか、と勧告した。
松永も河合参謀と同様な理由により、その勧めを断った。
それならばということで、児玉大将も、諒承することになった。

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ツシマ沖の海戦(その二百十四)THE Battle of Tsushima
2007-02-03 Sat 03:57
奉天に居るクロパトキン大将は、乃木軍の主力が西部戦線にあって運動を始めたことを知った。
彼は、直ちに東へ送った予備軍を呼び戻すべく、その措置を講じ始めた。
午後二時過ぎから戦闘が激しくなり、乃木は敵の壁が厚くなったことを体感した。
乃木は前進を焦った。
総司令部からの電話による督促も激しくなった。
「第九師団は動いてとらんじゃないか」
乃木の司令部は、第九師団は、当面据え置いたまま他の師団が予定の位置に着くのを待って、動かそうとしていたのである。
ところが、この日、第七師団が西方に躍進しすぎて、第九師団との連絡が途絶えがちになった。
午後三時、第九師団がようやく腰を上げた。
白皚皚たる満州の荒野を、師団の一万一千四百人の将兵は粛々として行進した。
ロシアの砲火が降り注ぐ中を、彼らは整然として進んだ。
砲弾が炸裂して絶えず立ち上げる雪煙の中を、師団の隊列は決して崩れることはなかった。
ニキロ半進み、予定陣地に入った。
 三月二日、日本側は乃木の第三軍による奉天包囲の西側の壁を築こうとし、ロシア側は右翼に展開していた第二軍の主力を引き上げ、それに対抗する防御壁を構築しようと努めた。
日本側は第二軍がロシアの第二軍の主力と組み合っている間に、第三軍を奉天北西に急進させ、包囲網を築こうとしていた。
ロシア側にしても、第三軍の迂回を防ぐためには、第二軍が素早く撤退しなければならない。

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ツシマ沖の海戦(その二百十三)The Battle of Tsushima
2007-02-02 Fri 00:00
クロパトキンは、更にシベリア第一師団と第七十二師団、加えて歩兵二個連隊を東部戦線に増派した。
彼は全兵力の実に二割をこの狭い山岳地帯へつぎ込んだのである。
この神経質な将軍は、中国人間諜のもたらした「ノギ軍十万来る」という誤報に振り回されすぎていたのである。
さらには、クロパトキンは鴨緑江軍に第十一師団が含まれていることを知り、これを第三軍と誤解したのである。
東部戦線で、鴨緑江軍が健闘している間、西部戦線に展開している第三軍はまだ行動を起こしていなかった。
二月二十五日、第三軍の幕僚たちは「鴨緑江軍が清河城を占領した」という吉報に沸いた。
乃木は、今こそ第三軍が行動を開始すべきだと判断し、総司令部に電報を打った。
折り返し返電が届き、「二十七日から、前進を開始せよ」と命じられた。
その日の午前九時、乃木の軍団は一斉に発動した。
田村久井少将の率いる騎兵第二旅団は小黄旗堡に向かって進発し、飯田俊助中将の第一師団は六間房へ、大迫尚敏中将の第七師団は猫児頭へ、永田亀少将の野砲第二旅団は呉家崗子へとそれぞれ進軍を開始した。
会戦開始後第三日目の三月一日朝、日本軍の大攻勢が始まった。
満州の凍った荒野に、地軸を揺るがす砲声が轟いた。
東部においては、鴨緑江軍が前進続け、黒木軍がそれを助けつつ正面攻撃を開始した。
野津軍と奥軍のそれぞれの砲兵の全力を挙げて、正面の敵陣地に砲弾の雨を降らせた。
乃木の第三軍は旋回運動を続けていた。

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ツシマ沖の海戦(その二百十二)The Battle of Tsushima
2007-02-01 Thu 00:00
この東部山岳地帯での戦闘は、実に二十日間も続いた。
第十一師団が来れば、と後備第一師団の誰もがその来着を待った。
第十一師団は、四国出身の現役兵をもって編成されている師団であり、旅順で勇名を馳せたことで知られている。
清河城の東南陣地に対する攻撃は、第十一師団の到着を待って、二十四日の払暁から再開された。
後備第一師団の左翼隊は手投げ爆弾をもって、敵の側防火器を制圧させ、その突撃には十分な砲兵援護が与えられた。
同時に前進した主力には、四挺の機関銃が援護用として与えられていた。
敵の射撃は、この四挺の機関銃が見事に制圧した。
その間に歩兵一個中隊が敵の死角に飛び込むことに成功した。
第十一師団も同時攻撃を行い、戦闘六時間の結果、この敵陣地を制圧した。
ロシア軍は全ての陣地を捨て、清河城へ篭った。
日本軍はすかさず清河城へ迫ったが、この夜、ロシア軍は火を放ち、清河城を捨てて、西北方の大嶺の線まで後退した。
軍司令官川村景明は、進んで馬群丹を占領すべし、と命じた。
二十六日、第十一師団が馬群丹に向かって進発した。
彼らは、その途上にロシア軍のエック中将の師団が構築した防御陣地に苦闘せざるを得なかった。
同日の夜、第十一師団の宿営地の前面のロシア軍陣地で、幾度にも起き上がる歓声が、日本兵たちを驚かせた。
クロパトキン総司令官は、その指揮下のレネンカンプ支隊を援軍として、この方面に急派するという知らせが、ロシア軍陣地に届いたからであった。
苦戦中のロシア兵たちが狂喜したのは無理からぬことであった。
「ウラー、ウラー」の雄叫びは、闇を貫いて何度も木魂した。

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