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ツシマ沖の海戦(その二百十一)The Battle of Tsushima
2007-01-31 Wed 00:00
ロシア軍は、堅固な陣地を築き、猛攻をかけてくる筈の日本軍を迎え撃つ作戦を採った。
ただし、ロシア側は当初、日本軍の左翼に対して攻撃をかける計画を立てていた。
六、七十キロに及んで展開する日本軍の左翼は、第二軍の受け持ちであり、特にロシア軍が目標としたのは秋山支隊が防衛する黒溝台付近であった。
しかし、それに先んじて日本側の攻撃が開始された。
クロパトキンは慌てた。彼は西部戦線に向かって一大攻勢をかけようと企図していたところ、東部戦線の東端から日本側は突如、戦いを仕掛けてきたのである。
鴨緑江軍に属する後備第一師団が清河城を攻撃したのである。
清河城は、アレキセーフ中将を総指揮官に頂く清河城支隊と呼ばれる大部隊が守備していた。その兵力は東狙撃兵第五師団と歩兵七十一師団をその主力とし、バイカルコサック騎兵師団、シベリア集成歩兵旅団等を含む大兵団であった。
彼らは清河城外に半恒久陣地を築いて、布陣していたのである。
そこへ挑んだのが、僅か一万名の後備旅団であった。
彼らは南九州と石川県、富山県で招集した兵たちで、訓練は僅か百日足らずで戦場に引き出されていたのだ。
この後備第一師団は、第十一師団と共同作戦をすることになっていた。
ところが、旅順を出たはずの第十一師団がまだ到着していなかったため、後備第一師団は単独での攻撃を躊躇ったのである。
「後備は役に立たない」
児玉源太郎の懐刀といわれた松川敏胤参謀が、はき捨てるように言った。
確かに、応召の老兵でもって編成された後備の師団に多くを求めるのは酷というものであった。

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ツシマ沖の海戦(その二百十)The Battle of Tsushima
2007-01-30 Tue 00:30
次は奉天会戦に移る。
奉天とは現在の中国東北部にある瀋陽の旧名である。
奉天は、鉄道の要衝であり、東清鉄道の東、西、南、北線の分岐点となっていた。
東清鉄道とは、ロシア帝国が満州北部に建設した鉄道であり、満州里と綏芬河を結んでいた。この時期、ヨーロッパ本国から増援を受けた、極東ロシア軍は、再度南方方面への攻撃を画策していた。
一方、このことを知った日本軍は、奉天周辺において一大決戦を挑もうと試みた。
奉天会戦は、明治三十八年三月一日から十日にかけて行われた、日露戦争最後の会戦となる。
双方は、これまで行われてきた戦闘の総決算とするため、この会戦に総力を投入した。
参加兵力は日本陸軍二十五万人、ロシア陸軍三十一万人。
火砲は日本軍一千門、ロシア軍一千二百門。
歴史上、稀有な大会戦となったのである。
日本側は第一から第四軍に鴨緑江軍とその全力を挙げての布陣となったが、対するロシア側は、予備として二個師団を残置する余裕を見せた。
総司令官は日本側大山巌元帥、ロシア側はアレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキン大将である。
前述のように日本陸軍は、旅順攻防戦から解放された乃木の第三軍が戦列に加えたが、同時に要塞攻略に使用された二十八センチ榴弾砲六門が戦場予定地に運び込まれた。
戦線の右翼から鴨緑江軍、第一軍、第四軍、第二軍及び第三軍の順に布陣した。

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ツシマ沖の海戦(その二百九)The Battle of Tsushima
2007-01-29 Mon 00:29
日本軍砲兵の目標はロシア軍の陸上施設に移った。
旅順新市街には、二十八センチ砲弾が続々と落下し始めた。
十五日には、ロシア軍の司令部に直撃弾があり、コンドラチェンコ少将が戦死した。
ロシア守備軍の猛将として名高い彼の死は、ロシア軍の士気を急速に低下させた。
糧食、弾薬、守備人員の点では,まだ弾まだ余裕はあったが、状況は絶望的であった。
艦隊は全滅し、守備側の要衝である二○三高地は敵手に落ちている。
頼りとするバルチック艦隊の来航は、何時になるのかその見通しも立たない。
前線で執拗な抵抗を続ける、一部の部隊を除いて、全軍の士気は見る間に衰えていった。
新年の到来と共に、ロシアの守備軍は、ついに白旗を掲げざるを得なくなった。
明治三十八年一月二日、水師営において、旅順開城、降伏の調印式が行われた。
出席者は日本側乃木希典大将と幕僚、ロシア側はアナトール・ミハイロウィッチ・ステッセル中将とその幕僚である。
旅順の北十二キロにあるこの寒村で、両者が降伏文書に署名した。
こうして凄惨な四ヶ月にわたる戦闘は終了を遂げたが、日本側の人的損害は、ロシア側のそれの四倍にも上っている。
ところで、これだけの犠牲を支払いながら、日本側は旅順の早期攻略に拘り続ける必要があったのであろうか、という疑問は自然に胸底から沸きあがってくる。
日本側があれだけ恐れた旅順艦隊は、既に八月十日の海戦で、日本側の推察を上回る大損害を受けていた。
旅順港になんとか帰りついたのは、戦艦が五隻、巡洋艦一隻、駆逐艦三隻に過ぎなかった。
それらは、少なからぬ損害を受けており、いずれも大規模な修理を必要としていた。
放置しておいても、彼らがバルチック艦隊と合流して、日本連合艦隊の一大脅威と生り得たのであろうか。
しかし、大本営も日本海軍も一刻でも早い旅順艦隊の壊滅を切望し続けた。
それにしても、第三軍の払った代償は大きすぎた。
戦死者一万五千三百九十名、戦傷者四万二千名、戦病者三万一千名、合計九万名に及ぶ大損害である。
乃木は、二○三高地に「爾霊山」の名をつけて、戦死者の霊を慰めた。

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ツシマ沖の海戦(その二百八)The Battle of Tsushima
2007-01-28 Sun 00:12
大本営は危惧した。
このままでいけば、第三軍は旅順と心中をしてしまう。
11月29日になって、見かねた満州軍総参謀長兒玉源太郎大将が旅順へ赴くこととなった。
秘密裡に、第三軍の指揮権を児玉に委譲させるという強硬手段が採られたとも伝えられている。
児玉が旅順への途上、二○三高地奪取の報が届き、大いに児玉を喜ばせたが、それは糠喜びに終わった。
後にロシア軍によって奪還されてしまったのだ。
この時期、ロシア軍と日本軍はこの狭い高地を巡って壮絶な攻防戦を繰り広げていた。
七度にも及ぶ、争奪戦が繰り返しされたのだ。
児玉は、旅順到着後、乃木と二人きりで会談を行った。
そこで語られたことについては、何の記録も残っていないが、その後第三軍は攻撃の重点を二○三高地へ変更している。
日本軍は十二月一日から三日間、ロシア軍に休戦を申し込んだ。
大砲の陣地変換を行うための時間稼ぎであった。
休戦明けの十二月四日早朝から、日本軍の猛攻が開始された。
二十八センチ砲弾二千発以上が打ち込まれた。
その弾雨を背中に背負うようにして、歩兵が山腹を駆け上った。
二○三高地の東北角、西南角を、僅か一時間半ほどで占領した。
ただちに、山頂に機関銃が担ぎ上げられ、ロシア軍の逆襲に備えた。
総攻撃は成功裡に終わったが、山腹は日本軍兵士の死体で覆われた。
戦死者は約五千五百名である。
山頂には観測所が設けられ、眼下の旅順港の様子が、逐一後方に設けられた二十八センチ砲台へ報告された。
一方的な砲撃戦となった。
山越の巨弾を防ぐ術をロシア太平洋艦隊は見つけ出すことができなかった。
同艦隊は敵の砲兵の所在が確認できず、気休め程度の反撃を行うに留まった。
八月十日の海戦による損傷を引きずったままのロシア軍艦は次々に沈没していった。
十二月十一日、ロシア艦隊は全滅した。
それを見届けた兒玉は、煙台にある満州軍司令部へと戻っていった。

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ツシマ沖の海戦(その二百七)The Battle of Tsushima
2007-01-27 Sat 00:00
十月になると、バルチック艦隊がロシアを離れ、東方遠征の途についたという報を受け、陸軍は海軍からの矢の催促を受ける立場に陥った。
去る八月十日の黄海海戦において、ロシア太平洋艦隊は甚大な損害を受けたが、旅順港内にはまだ四隻の戦艦が残っている。
日本海軍として、できるだけ早く残存ロシア艦隊を全滅して欲しい。
そのためには、陸軍に港内を見渡せる地点を確保してもらわなければならなかったのだ。
その焦りが、前記の「矢の催促」となって現れたわけである。
窮地にたった陸軍は、内地に残された唯一の現役兵師団である旭川の第七師団を引き抜いて、第三軍に投入した。
第三回の総攻撃指令が出されたのは、十一月二十六日のことである。
二十八センチ榴弾砲十八門が配備され、その他に四百門が砲門を開いた。一日八千発を超える砲弾が、ロシア陣地に降り注いだ。
しかし、ロシアの頑強な抵抗は続いた。
二十八日、白襷隊が結成された。
志願者からなる突撃隊である。彼らは夜襲の際の味方識別のために全員が白襷を着用したので、この名がつけられたのである。
中村覚少将が指揮して、決死の突撃を敢行したが、ロシア側はサーチライトを照射し、これを退けた。
三十日にいたり、三拠点を占領したが、結局、攻撃は中止された。
死傷者が参加兵力の一割に達したからである。
失敗の最大の理由は、要塞の正面部分を無理攻めしたことにある。
大量の犠牲とそれに反する報われない戦果は、近代的な要塞に白兵攻撃をかけ続けさせた、第三軍首脳の責任であることは明白であった。
それでも、第三軍首脳は、正面突破に拘り続けた。

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ツシマ沖の海戦(その二百六)The Battle of Tsushima
2007-01-26 Fri 00:31
第二回総攻撃の参加兵力は、日本側は二万六千四百名、一方のロシア側は一万二千八百名である。
今回の攻撃の特徴は、工兵を大幅に増やして、要塞近くまで坑道を掘り進んだことである。
それに加えて、内地の海岸要塞から取り外して、送り込んできた二十八センチ榴弾砲を使用して、ペトンで固められた要塞の掩蓋を破壊しようと試みた。この巨砲はコンクリートの台座に据え付けられており、移動は至難の技であるとされていた。
しかし、大本営は、有坂成章少佐の発議を取り入れ、攻城砲として旅順へ運んだのである。有坂といえば、三十年式歩兵銃の開発者として著名であり、同銃は、それまで使われていた村田連発銃に代わる初の陸軍制式小銃として採用された。
明治31年には、三十一年式速射砲の開発に成功した。この砲は「有坂砲」と呼ばれ、その成果により、我が国の銃砲開発者としての彼の名を不動のものとした。
攻撃は九月十九日から二十三日まで行われたが、要塞の防衛線突破はならなかった。
日本軍の死傷者は二千五百人にのぼった。
海軍側からは、南西の二○三高地の占拠を申し入れがなされた。
海軍として、この高地に観測所を設置して、旅順港に篭るロシア太平洋艦隊の撃破を希望したのであった。
大本営も同意見であったが、第三軍は相変わらず正面突破に固執した。

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ツシマ沖の海戦(その二百五)The Battle of Tsushima
2007-01-25 Thu 04:38
日本軍は、六月二十六日から二十八日にかけて、鞍子岑の戦いを皮切りにして、要塞の周辺陣地を次々に攻略していった。
八月十九日から、日本軍は要塞に対し第一回目の総攻撃を開始した。
攻める日本軍は、後方支援の砲兵、工兵を加えると五万名を超える兵員が参加していた。
それに対して、守るロシア側の当面の兵力は、約三万四千名であった。
四百門余りの日本軍の野砲が一斉に砲門を開いた。
砲撃は数時間に及び、その後歩兵と工兵とが前進した。
一日目から三日目にかけて、敵陣の二キロ近くにまで接近し、そのまま待機の姿勢に入った。
再び、日本側の猛砲撃が始まった。
二十一日未明から、一斉突撃による要塞奪取が試みられた。
第一師団が目標とした、大頂子山要塞は陥落したが、他の第九、第十一師団の攻撃は失敗に終わった。
日本側の事前の準備射撃は、深い塹壕と厚いコンクリートに囲まれて身を潜めるロシア守備兵にはさほどの効果を上げてはいなかった。
いやむしろ、全く成果を挙げていなかったというべきであった。
おまけに山腹の樹木は予め伐採されていたので、日本兵は身を隠すものを見つける術もなかった。
彼らは弾雨の中を、銃剣を手にして、ただ前進するほかはなかった。
その上、陣地の前面は地雷原となっていた。
立ち往生する日本兵たちを要塞の中から、ロシア兵たちは思うがままに射撃の目標とすることすることができたのだ。
攻撃側の死傷者は見る間に激増した。
二十四日になって、ようやく攻撃中止命令が出されたが、日本軍の死傷者は既に一万五千八百六十名にのぼっていた。
第三軍首脳は、その結果に驚愕した。
しかし、彼らは世界屈指の近代的要塞に篭る敵兵に対して白兵の正面攻撃を行うという愚行の真の恐ろしさに、この時点では,まだ気づいてはいなかった。
それは、一ヵ月後の第二次総攻撃において、如実に実証された・

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ツシマ沖の海戦(その二百四)The Battle of Tsushima
2007-01-24 Wed 00:05
ところで、余談となるが、ここで旅順攻防戦と奉天会戦について簡単に触れておきたい。
旅順攻防戦とは、1904年に、日本とロシアとの間で行われた、旅順要塞を巡る一連の戦闘のことをいう。
旅順は、遼東半島の突端部にあり、古くから天然の良港として知られてきた。

1878年になると、当時の清の北洋艦隊の根拠地として使用されることとなった。日清戦争中においては、日本陸軍が占領し、下関条約によって旅順を含む遼東半島は日本に一旦、割譲されることに決定した。
しかし、その後の所謂、三国干渉によって、その割譲は中止されることになった。
西暦1900年の北清事変の勃発後、ロシアの租借地となり、ロシア海軍の太平洋艦隊の根拠地として、近代的な要塞化が進んだ。
旅順の要塞は、旅順口を基点にして扇形を描いて拡がっている。
東北の南夾板嘴陣地、南西には二○三高地、南西には城頭山陣地を結ぶ防衛ラインが築かれているのである。
大規模陣地の数は総計二十カ所、そこには口径十センチ以上の重砲百三十門及び口径十センチ未満の軽砲三百門、それに加えて各種機関砲三十門が配備されていた。
更には、一旦戦闘が開始されれば、海岸砲台も陸軍に協力する手筈が整えられていた。
また、陣地間では相互に支援射撃ができるように、巧みな設計が施されていた。
砲台は二重に掘られた塹壕と、分厚いペトンが組み合わされて構築されていた。
ロシアはこの要塞に約四万名の陸軍兵士を配備していた。
日本側はこの要塞攻略のために乃木希典大将指揮下の第三軍を充てた。
第三軍は、第一師団、第九師団及び第十一師団によって構成され、野戦砲兵第二旅団、攻城砲部隊、後備工兵隊がそれを支援する態勢がとられていた。

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ツシマ沖の海戦(その二百三)The Battle of Tsushima
2007-01-23 Tue 00:01
五月三十一日、ニコライ二世は、重臣会議を招集し、ロシア艦隊の壊滅を国民に公表することを決した。
また、「タイムス」の記者は、あるロシアの高官が彼に語ったところによるとして、会議の席上でニコライ二世は、総力を挙げての戦争の継続を主張したと伝えた。
この日、ロシアの有力紙はこぞって、ツシマ沖の海戦の結果を大きく報道した。
ペテルスブルグで発行されているある新聞は、「ツシマ沖で行われた海戦は、日露戦争の勝敗をはっきり決めてしまった。歴史は、新しいページに入った。」という趣旨の社説を掲げた。
それまで、政府の報道管制によりロシア艦隊の敗北を知らされていなかったロシア国民に対して、それは驚きと深い悲しみをもたらした。
しかし、敗戦という情報が全く国内に伝わっていなかったわけではなかった。
国内には、種々の風説が乱れ飛び、絶対君主制度の打倒を目指す革命家たちにとって、それらは絶好の宣伝材料となっていた。
革命家たちはその風説を誇張して、民衆を煽り立てた。
欧米各国の新聞は、旅順攻防戦、奉天大会戦に続く、日本海海戦で日本が勝利を収めたことを機会にして、日露戦争の終結を望むという論調で一致していた。
それらは、勝敗は既に明らかである、これ以上無益な流血は避けるべきであるとの趣旨であった。
一方、日本の国民の大半は講和に反対していた。
新聞は連戦連勝を伝え、国民は勝利に陶酔していた。
日本海海戦の大勝利により、彼らは熱狂して、ハルビンを落せ、ウラジオストックへ侵攻せよ、と叫んでいた。
しかし、日本財政は既に枯渇していた。
戦争に投入された金額は、既に二十億円を超えていた。
政府は、これを増税、新税の創設、五回にも及ぶ国債の発行、四回の外債によって賄ってきた。
しかし、二十億円といえば、なにしろ平時の国家予算の八倍に当たる巨額な出費である。
それ以上の出費に耐える力は、当時の日本にはなかった。
次に軍備に不安を抱えていた。
開戦以来、東洋にあったロシアの海軍は全滅し、はるばるロシウ本国から回送されてきたバルチック艦隊も壊滅した。
世界的に海軍力を誇っていたロシアの海軍は、消滅してしまったのである。
日本海軍は絶対的な優位に立っていた。
したがって、朝鮮海峡における制海権に関しては何の不安もなかった。
問題は陸軍であった。
明治三十八年三月十日、総司令官大山巌元帥は、大本営参謀総長山縣有朋元帥に宛てて、次のような意見書を提出した。
「今後の作戦の要は、政略と戦略の一致にあり」
奉天会戦により、日本陸軍がロシア陸軍を敗走させた三日後のことである。
ここでいう「政略」とは、外交的な働きかけを始めて欲しいという意味である。
この大会戦後の日本陸軍の実情は、既に戦闘を継続することは不可能な状態にまで達していたのだ。
山縣もその点については、見解は完全に一致していた。
奉天での戦闘で、ロシアの大軍を敗走ささせたが、日本陸軍にはそれを追撃する余力すら残っていなかったのだ。

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ツシマ沖の海戦(その二百二)The Battle of Tsushima
2007-01-22 Mon 01:34
日本艦隊に取り囲まれた際に、 ネボガトフ少将の採った行動は、ロシア海軍刑法第二百七十九条により、死刑に該当することになっていた。大抵の国の海軍刑法においては、同様な規定が置かれている。
因みに、我が海軍においては、その第三十五条に「辱職ノ罪」として「指揮官其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ敵ニ降リ又ハ其ノ艦船若ハ守所ヲ敵ニ委シタルトキハ死刑ニ処ス」と定められている。
ロシア海軍刑法第二百七十九条には、次の如く規定されている。
「艦隊、戦隊、船艇隊或いは艦船艇統率の任に当たり宣誓義務により軍人たる名誉の要件に応じ、その上自己の職分をつくさざる者は、官位を奪い、その職務を免ず。もし戦いを交えず、或いは防戦できる状態で戦いを放棄した者は、これを死刑に処す。」
事実、戦後、クロンシュタット軍港で開かれた軍法会議は、同少将に死刑を言渡している。
少将は、法廷において、「私は二千四百人の部下を救おうとして、無益な血を回避するためやむを得ず降伏をしました。」と弁明した。
しかし、軍法会議は、彼の弁明には耳をかさず、次のように結論を下した。
「確かに包囲した日本艦隊の兵力は圧倒的に優勢で、抵抗することは全滅を意味していたに違いない。が、ロシア艦隊の名誉のためには、血を流すことも決して無益ではなかった。昔から戦士の名誉ある死は、国民の士気を奮い立たせるだけではなく、子々孫々までも語り継がれるものである。もしも全滅を覚悟で徹底抗戦を続けたら、その勇敢な行為は幾世紀を経ても国旗の名誉とともに永久に朽ちることなく、一層その輝きを放つであろう。
これに反して不名誉な降伏は、後の世まで臆病な軍人とさげすまれ、しかもこのような弱者の行為は海軍全体を腐敗させ、その代わりに敵の士気を盛んにする大きな原因となる。以上のような理由から、ネボガトフ少将の採った行為は、ロシア軍人、ロシア国民の名誉を貶めたものと断定する。」
ただし、ネボガトフに科せられた刑は、後に要塞禁固十年に減刑された。
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ツシマ沖の海戦(その二百一)The Battle of Tsushima
2007-01-21 Sun 05:58
両提督の報告文は、海戦の結果と自らの責任についてロシア皇帝ニコライ二世の裁断を仰いだものであった。
ロシア皇帝から、駐日フランス大使を仲介にして、ロジェストウエンスキー中将宛に返電がもたらされた。
「ロジェストウエンスキー提督
朕は、卿及び艦隊の全員が露国及び朕のために戦闘に臨み身命を投げうち、誠実にその任務を尽くしたるを深く嘉す。神は、卿に名誉の戦勝を冠するに至らざりしも、卿等不朽の勇武は、今後祖国の常に誇りとする所なるべし。
朕は、卿がすみやかに全快せんことを望む。神は、卿等を慰藉せらるべし。
ニコライ」
ロシア皇帝は、ロジェストウエンスキーの立場に深い同情と理解を示したのである。
それに引換え、ネボガトフ少将には、一切の返電はなかった。
ロシア皇帝と彼の海軍省は、戦闘力も残された戦艦二隻を含む五隻の軍艦を擁しながら、一戦も交えずして降伏したネボガトフ少将の行為に対して、不快感を露わに示したのである。
これに同情したロジェストウエンスキー中将は、六月十二日、再びニコライ二世に宛てて電文を送った。
「皇帝陛下
陛下の御親電を拝したる数時間前に至り、小臣は戦艦アリョール、ニコライ一世、セニャーウィン、アプラクシンが五月十五日(露暦)敵に降伏したるの報道に接せり。
小臣は、此の災害を聞き呆然なすところを知らず。
これ全く小臣一人の責任なりと思惟す。
小臣は、ここに悲惨の状況にある者に対し陛下の御理解を切願す。
ロジェストウエンスキー」
しかし、この電文にもニコライ二世からの返電はなかった。

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ツシマ沖の海戦(その二百)The Battle of Tsushima
2007-01-20 Sat 05:00
一方、ネボガトフ少将も、降伏の経緯に関してロシア皇帝へ報告した。
「皇帝陛下
謹んで奏す。
前夜の激戦の後、五月十五日(露暦)戦艦ニコライ一世、セニャーウィン、アプラクシン、アリョール及び巡洋艦イズムルード、はウラジオストックへ向け進航の途次、二十七隻の日本軍艦のために包囲せられたり。
弾丸の欠乏、大砲の破損及びアリョールの戦闘力喪失のため、敵艦隊に抵抗を試みるは絶対に不可能なる状態にあり。
且この上二千四百人の人命を失うは無益なると同時に他に免るる途なかりしを以て、高速力を利用して逃走したるイズムルードを除くのほか他の四隻は士官以上の帯剣を許し且士官以上は宣誓の上本国に帰還するを得る様日本政府に尽力すべしとの条件を以て降伏するやむを得ざるに至れり。右条件は、日本皇帝陛下の寛大なる聖意により御承認を得たり。
小臣は、右について陛下の御聖断を仰ぐ。
                                ネボガトフ」
ロジェストウエンスキーの報告電文に比較して、ネボガトフのそれは艦隊の辿った運命は一読して明らかであり、かつ、自らの判断の正当性を明確に主張し、それに基づいて名誉の降伏を行ったことについて、皇帝の判断を仰いでいる。つまり、簡潔にして要を得ている報告文であるといえる。

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ツシマ沖の海戦(その百九十九)THE Battle of Tsushima
2007-01-19 Fri 03:19
ロジェストウエンスキー提督は、本国のニコライ二世に対して、敗戦の結果について次のような電報を送った。
「皇帝陛下
五月十四日(露暦)午後一時三十分、対馬南端と日本との間に於いて十二隻よりなる日本艦隊主力及び十二隻より少なからざる其の巡洋艦隊と戦闘を開始せり。
二時三十分スワロフは、中央位を去るの止むを得ざるに至れり。
二時三十分幕僚の一部及び小臣は、知覚を失いたるままブイヌイに移されんが、同艦はすでに沈没せりオスラビア乗員一部を収容しありたり。
艦隊の指揮権はネボガトフに移譲せり。
ブイヌイは夜間に艦隊と相失せしが、翌朝二隻の駆逐艦を伴えるドンスコイに遭遇してオスラビアの兵員を同艦に移し、又小臣はベドウイに移されグローズヌイと共に前進せり。
十五日(露暦)の夕刻ベドウイは二隻の日本駆逐艦に降伏するを知れり。
十七日(露暦)ベドウイは佐世保に引致せらる。
十八日(露暦)ネボガトフ佐世保に在りと聞く。
侍従将官
ロジェストウエンスキー」
ロジェストウエンスキーが皇帝に捧げたこの電報の報告文は、いかにも無味乾燥である。自分が負傷したこと、知覚を失っている間に乗艦が降伏したことなどが主に記されており、自らが統率した大艦隊の運命にも触れるところが少ない。
勘ぐれば、自己保身のためにのみ作成された報告文ともとれないことはない。
一読して後味の悪さだけが残る文章である。

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ツシマ沖の海戦(その百九十八)THE Battle of Tsushima
2007-01-18 Thu 00:02
日本国内にも、歓声が沸きあがっていた。
この海戦は、海軍省から正式に「日本海海戦ト呼称ス」と公表された。
ロシア艦隊の壊滅の知らせは、新聞号外等によって日本中に伝えられた。
東郷司令長官は、大本営に対し、報告文が打電された。
「敵艦隊ノ主力ハ、ホトンド全滅セシニ付御安心アリタシ」
伊東軍令部長は、天皇にその旨を上奏した。
五月三十日、天皇は東郷司令長官に勅語を下賜した。
「連合艦隊ハ敵艦隊ヲ朝鮮海峡ニ邀撃シ奮戦数日遂ニ之ヲ殲滅シテ空前ノ偉功ヲ奏シタリ。朕ハ汝等ノ忠烈ニ依リ祖宗ノ神霊ニ対ウルヲ得ルヲヨロコブ。惟ウニ前途ハ尚遼遠ナリ。汝等愈ヨ奮励シテ以テ戦果ヲ全ウセヨ」
この勅語は全国民へも伝えられ、人々の興奮はその頂点に達した。
三十日の夜になると、日本の各地で提灯行列が催された。
行列の先頭から万歳の叫びが上がると、それは次々に引き継がれて、大津波のような歓声となって夜の町々に木魂した。
提灯を高く振りかざした若者たちは走り回り、老人や婦人たちは涙を流しながら、笑いあった。
日本艦隊の殆どは。それぞれの母港へ帰還し、乗員たちも祝い酒を振舞われ、互いに喜びを交わした。
禁止されていた一般船の航行が許可され、朝鮮海峡にも灯火を点した船舶の往来が見られるようになった。

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ツシマ沖の海戦(その百九十七)THE Battle of Tsushima
2007-01-17 Wed 04:57
日本駐独公使井上勝之助は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世に謁見を乞うて、日本海軍大勝の通報を行った。
皇帝は、「今回の海戦は、トラファルガー海戦以来、また日露戦争開始以来最大のものであることは疑う余地はない。」と祝辞を述べた。
そして、言葉を継いで、実は、ドイツ海軍の高級将校たちは日本側の勝利を危ぶんでいたが、自分は、東郷大将の勝利を確信していた、と述べた。
一方、米国には、長崎の米国領事の電報により、海戦の第一報がもたらされた。
「日本艦隊ハ日本海ニ於テ露国艦隊ト会戦シ、敵艦六隻ヲ轟沈シ、九隻ヲ捕獲シ、東郷提督麾下ノ艦隊ハ何等ノ損傷ヲ被ラズト云フ」
当時の米国大統領はセオドル・ルーズヴェルトであったが、彼はこの報告を読んだとき、事実であるとは信じられなかったと、後日、正直に述懐している。
滞米中であった元法相金子賢太郎も同様であった。
ニューヨーク市内でも、市民たちは新聞号外を手に話し合っていたが、金子の顔を見ると、走り寄って来て、握手を求める者もいた。
夜の街に出て、あるレストランに入ると、居合わせた米国人客たちは、次々に握手を求めに集まってきた。
バンドは日本の国歌君が代を演奏した。
駐米武官竹下勇中佐は、報告のためホワイトハウスを訪問すると、ルーズヴェルト大統領は、中佐の手を両手で握り締めて祝いの言葉を述べた。
「Let me congratulate you on your navy’s success」
大統領は、日本海軍の偉業を口を極めて褒め称えた後で、バンザイと日本語で叫んで祝辞を終えた。
竹下中佐が辞去すると、その背中に視線を送りながら、同席していた海軍長官P・モートンが呟いた。
「今出て行く彼は何と幸福なことか。あらゆる日本人、とりわけあらゆる日本海軍軍人は、今日さながら空中に踊躍しているの想いであろう。」
欧米の新聞も一斉に、この驚くべき戦果とその結果について書きたてた。
例えば、ワシントン・タイムスは「ロシアの敗北は、文明の勝利である。」とまで、極言し、世界はロシアの敗北を歓迎する。ロシア政府の政略と目的を憎むからであり、その敗北が平和の到来を期待させるからである、と書いた。

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ツシマ沖の海戦(その百九十六)THE Battle of Tsushima
2007-01-16 Tue 06:36
では、ここで、本海戦の結果についての各国の反応を探ってみたい。
海軍省の公表によると、日本側の戦果は、撃沈十七隻(戦艦七隻を含む。)、捕獲五隻(戦艦二隻を含む。)、計二十二隻である。
いうまでもなく、驚異的な戦果である。
全世界は驚嘆したの当然ことである。
世界中の誰もが、ちょうど百年前に起きた「トラファルガー岬沖海戦」のことを思い起こした。
千八百五年十月二十一日、ジブラルタル海峡北西のトラファルガー岬沖において、H・ネルソン提督指揮下のイギリス艦隊二十七隻とピエール・ド・ヴィルヌーブ提督が率いるフランス・スペイン連合艦隊三十三隻との間で行われた海戦のことである。
二列縦隊で風上から突入するイギリス艦隊に対し、それまで南進を続けていたフランス・スペイン連合艦隊は決戦を避けようとして、突如北へ反転して、大西洋に面したスペイン南部のカディス港に逃げ込む構えを見せた。
しかし、突入してきた英国艦隊にその中央部の艦列をぶち破られた。
艦列は四散し、遂に大敗を喫することになった。
フランス・スペイン連合艦隊の先頭部隊は、そのまま南進を続け戦場を離脱したが、艦隊後尾に位置した部隊は北進して、なおもカディス港へ逃げ込もうと試みた。
連合艦隊の中央部隊の十三隻は、英国艦隊に捕獲され、ヴィルヌーブ提督は捕虜となった。
連合艦隊側の損害は沈没一隻、捕獲されたものは十八隻にのぼった。
イギリス艦には損失が無かったが、ネルソン提督は狙撃を受け戦死を遂げた。
この海戦の結果、ナポレオン1世の英本土上陸という野望は潰え、イギリスの制海権掌握は決定的となった。
そして、この勝利によってイギリスは、七つの海の覇者への途を固めたといわれている。
だが、日本海海戦の結果は、その「トラファルガー岬沖海戦」のそれを、はるかに上回ることとなったのである。
世界中が驚嘆したのも、無理からぬことであった。

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ツシマ沖の海戦(その百九十五)THE Battle of Tsushima
2007-01-15 Mon 02:37

佐世保の海軍病院へ移されたロジェストウエンスキー提督は、日本の医師団によって手厚い看護を受けた。
医師たちは彼の頭蓋から砲弾の破片を慎重な手術により摘出した。
ロジェストウエンスキーの姪に当たる女性は、篤志看護婦として病院船に乗り組んでいたが、彼女も看護婦の一人に加えられた。
六月三日になって、初めての見舞い客が訪れた。
東郷である。
同行者は秋山眞之と山本信次郎の両名であった。
院内に入ると戸塚環海海軍軍医総監が案内に立った。
木造二階建ての長い廊下の先の病室に、ロジェストウエンスキーが東郷の顔を見上げた。
彼は白い病衣を纏い、頭部を分厚い包帯で包まれていた。
東郷は握手を交わすと、ベッド脇の椅子に腰を下ろし、ベッドのロジェストウエンスキーを覗き込むようにして話し始めた。
東郷は、先ず、病院の設備がいかにも粗末であること詫びた。
そして、同じ海軍軍人として、ロジェストウエンスキーの戦闘における勇気を賞賛した。
「閣下は、はるばる遠いロシアから回航して来られましたのに、武運は閣下にリあらずして、ご奮戦の甲斐なく、重傷を負われました。
今日此処でお会いすることについて、心からご同情申し上げます。
願わくは十二分にご療養くだされ、一日も早くご全快くださることを祈ります。」
そして、「なにかご希望の向きがございましたら、ご遠慮なく申し出てください。」
と、付け加えた。
「私は貴官に敗れたことを悔やんではおりません。」
東郷の誠意溢れる言葉に、ロジェストウエンスキーは目に涙を滲ませて、東郷の手を握った。

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ツシマ沖の海戦(その百九十四)THE Battle of Tsushima
2007-01-14 Sun 04:53
クロング大佐以下幕僚たちは、そのままロジェストウエンスキーとともにベドウイに留まった。
彼らは病室の舷窓から、戦い終わった日本軍艦が続々と入港してくる光景を暗澹たる気持ちとともに眺めていた。
東郷は、敵将が重態であることよく承知していた。
彼は見舞うこと遠慮して、フランス語に精通している山本信次郎大尉に病衣をもたせて、ペドウイに向かわせた。
山本は、クロング参謀長らとベドウイの士官室で会い、ロジェストウンスキー提督の病状について二、三の応答を重ねた。
クロングは悲痛な表情を浮かべて、提督は今は意識も定かではないので、とても貴官とお会いできる状態でない、と言った。
士官室の隣が、ロジェストウエンスキーが臥せている艦長室である。
時折、壁越しに呻き声らしいものが響いてくる。
結局、山本は東郷に託された病衣のみを置いて、引き上げることとなった。
その後、山本は再び、ベドウイを訪れることになる。
加藤海軍軍医少監の通訳として同行することとなったのである。
加藤は軍医、看護兵らを指揮して、ロジェストウエンスキー中将を海軍病院へ移送すべく、この艦に赴いたのである。
提督の身体は担架に横たえられ、彼の幕僚たちが、争うようにしてそれを担った。
提督の担架が三笠の汽艇に降ろされたとき、彼の意識は戻った。
それに気づいた山本が、東郷の意思をすかさず伝えると、ロジエストウエンスキーの目尻に涙が光ったように見えた。
彼は毛布の端から手を出し、山本の手を握って小さな声で礼を述べた。

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ツシマ沖の海戦(その百九十三)THE Battle of Tsushima
2007-01-13 Sat 03:46
五月三十日、三笠に座乗した東郷司令長官は、佐世保に入港した。
東郷は、戦艦敷島、同富士、装甲巡洋艦春日、日進、出雲、吾妻、八雲、磐手を従え、捕獲艦ニコライ一世、セニャーウイン、アプラクシンを伴っての堂々たる凱旋であった。
佐世保の町は既に大勝利に沸き立ち、人々は主力艦の姿を一目でも見ようとして、岸壁に集まってきた。
群集は、佐世保の湾内に点在する大小の島々を掻き分けるようにして入港してくる日本艦隊の姿を目の当たりにして狂喜し,大歓声をあげた。
同日午後零時四十五分、ロジェストウエンスキー提督を乗せた駆逐艦ベドウイが入港してきた。駆逐艦漣、叢雲、霰、巡洋艦明石が護衛して到着したのである。
この日は、午前中は晴れていたが、午後になって雲が増えは始めた。
やがて、小雨になり、その中で、三笠から約百メートル離れた場所にベドウイが投錨すると、時を移さず三笠から発進した汽艇が足早に近づいていった。
数名の司令部員がベドウイのタラップを駆け上がっていった。
痩身を翻して、真っ先にベドウイの甲板に足を下ろしたのは、連合艦隊参謀長の加藤友三郎少将であった。
ベドウイの輸送指揮官塚本克熊中尉が参謀長を出迎えた。
加藤と塚本は旧知の仲であった。塚本は元三笠乗組員であり、加えて二人は広島県出身という同郷者であった。
加藤は、塚本に労いの言葉をかけた。
塚本は加藤らをロジェストウエンスキー提督が横たわる部屋へ案内した。
加藤が部屋に入り、ベッドに臥しているロシアの降将に握手を求めると、頭部の包帯が痛々しい提督は僅かに身を起こし、沈痛な表情でそれに応えた。
駆逐艦ベドウイの負傷者は、全て汽艇に乗せられ、佐世保海軍病院へ搬送された。
ただ、頭部に重傷を負っているロジェストウエンスキー提督だけは、そのまま艦長室に臥せったままになっていた。
慎重に運び出すために、後回しにされたのである。

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ツシマ沖の海戦(その百九十二)THE Battle of Tsushima
2007-01-12 Fri 02:22
ウォエウォージン兵曹は、ノモト艦長との話をノビコフに伝えた。
そして、日本の艦長がどうしてユングを知っているのか、と盛んに頭を捻った。
ノビコフは、士官たちから聞いたある噂を思い起こしていた。
ユングはかって日本婦人と結婚したことがあり、子供まであるというのである。
ひょっとすると、ユング艦長がノモトと知り合った機会は、そその辺りにあったのではないかと、ノビコフは推察した。
しかし、事実は異なっていた。
この大航海中に妹ソフィアに宛てた手紙の中で、ユングはこう記している。
「以前、海軍武官としてロシアに居たイワン・ノワノーウィチ・ノモトがスラウイヤンカのわれわれの家に居たのを記憶しているだろうが、今、このノモトが巡洋艦の艦長として、われわれと戦うことになっている。あの先生を捕虜にしてつれて帰るのも悪くはないね・・・」
冗談めかした調子で書いているが、これはユングの間違いで、ノモト大佐は巡洋艦の艦長ではなく、新鋭戦艦アサヒの艦長を務めていたのだ。
そして、ユングの方が、かえって当のノモトによって自分が指揮する艦ごと捕虜にされたのである。
まことに、皮肉な運命というべきである。
日本の海岸が見えるほど近づいたとき、ヤスダがやって来て、驚くべき知らせをノビコフらに伝えた。
「あなたたちの司令長官ロジェストウエンスキー提督が捕虜になりましたよ。」
ノビコフらは、言葉なくじっと彼を見つめた。
「どうして。どんな事情で彼は降伏したのだい?」
ヤスダは、それには直接答えず、「もうすぐ戦争は終わりますよ」と言い、今は忙しいからと走り去っていった。
このニュースはたちまち、ロシア兵の間に広まった。
「嘘だ」
誰かが叫んだ。
「あんな獰猛な男が降伏なぞする筈はない。信じられねぇ」
「あんな奴は、死体にでもなったら、やっと捕虜にできるだろう。」
正午、日本の軍港に入る直前、ロシアの捕虜たちは前部下甲板に追いやられた。
まもなく、投錨するガラガラという響きが聞えてきた。

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ツシマ沖の海戦(その百九十一)THE Battle of Tsushima
2007-01-11 Thu 03:53
「貴方も、ご壮健でなによりです。」
ウォエウォージン兵曹は、やや間をおいてから、ようやく返答した。
「本艦に乗艦してからの具合はどうだね?」
流暢なロシア語を口にする野元の浅黒い顔には、謎のような微笑が浮かんでいた。
「結構でございます。」
「食べ物のほうはどうかね?」
「はい。唯一つ弱っておりますのは、フォークのないことで、なにしろ我々は箸の使い方がわかりませんもので・・・・」
「仕方がないねぇ。ロシア人が本艦に乗り込んでくるのは予想していなかったからね。陸にあがったら皆に進呈しよう。」
その後、野元が、アリョールの戦死者の人数などを尋ねた。
ウォエウォージン兵曹は、敵の艦長が何か探り出そうとしているのではと、内心警戒を始めた。
野元が話題を変えた。
「本日、君達のユング艦長の水葬が行われたよ」
「あの方は致命傷を負っておられました。」
「いい艦長だったかね。兵曹。」
「はっ、立派な方で皆に慕われておられました。」
野元は暫く目を閉じで、何か思いに耽っているような風情を見せた。
やがて、目を開き、静かに話し始めた。
「私はユング艦長をよく知っている。実に立派な人物だった。惜しい人を失ったものだ。」

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ツシマ沖の海戦(その百九十)THE Battle of Tsushima
2007-01-10 Wed 00:20
ノビコフは、さらに日本の海軍では、優秀な砲手には、相当な給料を渡し、彼が軍隊に長く残るように務めていることも知った。
砲撃戦の成功は主として砲手の双肩に掛かっている。
そのことを熟知していた日本海軍は、もっとも優秀な砲手たちを海軍全体から集めて、主力艦に乗り組ませていたのだ。
ところが、ロシアの艦隊では、第二艦隊のうちの戦いの運命を左右する新鋭戦艦にすら、新兵や予備兵に砲の操作を任せていたのだ。
最も優秀な黒海艦隊の砲手と交代させていたら、敵の成功をかなり弱めたのではないか。
ノビコフは慨嘆している。
話題を変えるが、ノビコフたちの艦長ユング大佐が死去した。
アリョールが舞鶴へ向かう途上、二十九日の夜のことである。
その水葬式は、アリョールの甲板で三十日の朝行われた。
日露の士官と兵員が立ち並ぶ中で、葬送のラッパが吹奏された。
防水布に包んで脚に錘をつけたユング大佐の遺体は、板に載せて艦尾楼の舷側際に置かれた。
二人の水兵が祈りの言葉を唱えると、板の片方が持ち上げられた。
日本兵が捧げ銃の敬礼をした。
行進曲を叩く太鼓の音と弔銃の発射音に送られて、ユング艦長の遺体は舷外へ滑り落ちていった。
野元大佐は、朝日の艦尾に佇み、哀悼の意を表した。
同じ朝、野元はウォエウォージン兵曹を艦長室に呼んだ。
「やあ、兵曹今日は」
ウォエウォージンは、ロシア語を耳にして驚いた。
彼は我が耳を疑うかのように書机を前にして腰掛けている艦長の顔を見つめた。

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ツシマ沖の海戦(その百八十九)THE Battle of Tsushima
2007-01-09 Tue 00:08
日本の軍艦では、七時半が釣床分配の時間であり、当直以外の兵員は自由の身となれた。
前甲板には、燻った棕櫚縄が入れられた煙草盆があって、日本とロシアの水兵たちがその前に陣取った。
その中にはノビコフもいたし、ウォエウォージン兵曹もパクラーノフ汽罐兵も参加していた。
水平線には橙色の大きな太陽が姿を隠そうとしていた。
海面は黄金色に染められ、潮の香りに満ちた微風が水兵たちの頬を撫でて通り過ぎていった。
つい二日ほど前の死闘が嘘のような平和な夜の帳が、下りようとしていた。
ノビコフの前にはヤスダが腰を降ろしていた。
ヤスダは銅製の煙管に刻み煙草を詰めて、吸いながら瞑想するように目を閉じていた。
ノビコフは、ロシアの水兵は艦に乗っているのは、一年のうちに僅かに四ヶ月で、後の期間は陸の兵舎で過ごすことを教えてやった。
ヤスダはさも驚いたように、黒い眼を大きく見開いて言った。
「違いますね。我々と全くやり方が違います。」
そこで、言葉を区切り、煙草を一服してから、ヤスダは続けた。
「我々は、一年中、航海しています。それに我々は大きな実地練習を通らなければならないのです。」
「どんな連中を海軍は採るんですかね?」
ウォエウォージン兵曹が口を挟んだ。
ヤスダの説明によると、日本の海軍は兵員の半数は兵役関係で来た者で占められ、残りは志願兵によって成り立っている。
水兵の幹部は海岸沿いの都市か軍港から募集されている。
海軍に入るのは、徴兵年齢まで沿岸航路の船員か、漁船に乗っていた者が多い。
志願兵の中から、最も素質のよい特修兵が出る。
勤勉で優秀な水兵は試験を受けて士官になることができる。
実際には、士官になれる確率はそう高くはないのだが、士官になる途が開けていることが、多くの水兵に海軍に堅く結びつける魅力となっていたのだ。
「巧く考えたもんだなあ」
ウォエウォージン兵曹が簡単の叫びをあげた。
「俺たちの方じゃ、どんなに頭のいい奴でも兵曹長にさえなれやしない」
パクラーノフ汽罐兵が頭を振りながら相槌を打った。
「そんな馬鹿な政府だからいつも叩かれてばかりいるんだ。」
パクラーノフが忌々しげな口調で吐き捨てた。

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ツシマ沖の海戦(その百八十八)THE Battle of Tsushima
2007-01-08 Mon 00:00
ノビコフは同僚たちとともに、三日間アサヒの艦内で過ごすことになった。
彼はその三日間を日本艦内の勤務組織を知ることに貪欲な情熱を注いだ。
勿論、それにはロシア語を解する二、三の日本水兵の手助けを必要としたことはいうまでもない。
ノビコフは、そのうちの一人と特に親しくなった。
その日本兵は、練達の砲手であり、海軍に入るまでは、長い間ロシアの各地で洗濯屋を営んでいた人物であった。
ノビコフはこの日本兵をヤスダと呼んでいる。
アリョールの水兵は両舷直に分かれ、それがまた二つに分けられていた。
それぞれの一部が、一分隊とされていた。
各分隊には、水兵部の士官が分隊長として、その任についていた。
分隊は各特科の水兵から成り立っていたので、分隊長は、自分の水兵部に属していない部下の兵の顔を知らないこともあった。
ところが、日本の軍艦では、兵員はその専門ごとに分隊を形作っており、分隊長はそれぞれの専門の士官であった。
このような兵員の細分により、分隊長は分隊に配属された兵員の職務遂行振りを監督することができるようになり、分隊員一人ひとりの性格まで把握できることになる。
分隊長は適材を適所に配属することができる。
ノビコフを驚かせたことがもう一つある。
日本の海軍における士官と兵員との関係が、ロシアのそれに比べて至極簡単にできていることであった。
しかし、それは艦内の厳正な軍規を保つための障害とはなっていなかった。
日本の水兵は、実に己の職務を心得ていた。
ノビコフらが乗艦しているときにも、丁度、合戦準備の号令を耳にしたが、彼らは敏速にそれぞれの持場に駆けつけた。その光景は、ロシアの場合と異なって、声も立てずに、叫び声もなく、ましてや殴りつけるような騒ぎも見られなかった。
僅か三、四分で、ものの見事に戦闘準備は完成したのである。
このように立派にできる原因は間もなく、ノビコフにも飲み込めた。
ある夕方、艦長の野元大佐が艦内巡視を終えたばかりのときだった。
日没と共に艦内の灯火か消され、砲は何時でも火蓋を切れるように準備がされた。
当直の砲員は砲側に付ききっていた。
「今や、日本艦隊を脅かすものは何もないはずなのに」
ノビコフは心底から感嘆した。

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ツシマ沖の海戦(その百八十七)THE Battle of Tsushima
2007-01-07 Sun 00:07
アサヒには、合戦が起こったら取り除いたり、隠したりせねばならないものは何一つなかった。
士官室は狭かったが、そり代わり六インチ砲が二門増やされていた。
司令塔の覗き窓も狭く作られており、中の人間と機械を見事に保護するようになっていた。
ノビコフは、アサヒの砲塔や遮蔽砲台の各砲に測距儀が装置されていることに感嘆している。
また、砲塔の掩蓋が実に巧みに砲を防御していることに対しても、目を見張っている。
彼は「どんな小さな破片でも砲塔の中へ飛び抜けることはできないほどであった。」と口を極めて、そのことを賞賛している。
ノビコフは、また、日本近代海軍の誕生の経緯についても思いを馳せている。
五十年足らず前までは、日本は軍艦らしいものを持ってはいなかった。
その海軍の基礎ができ始めたときは、丁度、世界で旧式の海軍が転換期に差し掛かった時期と一致している。
世界の海軍国ではこぞって、軍艦には帆走の代わりに蒸気機関を採用し始めた時代であった。
したがって、日本人たちには、各国の人々が愛着をもって手放しがらなかった古い伝統やしきたりには無縁の立場で、近代海軍を創設できたのである。
ノビコフは続ける。
日本の海軍当局は、自国の海軍を創設し発展させるため、外国から海軍力の発達に最も肝要なものだけを導入したのである。

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ツシマ沖の海戦(その百八十六)THE Battle of Tsushima
2007-01-06 Sat 00:00
夕方になって、ロシアの戦艦も日本の軍艦と共に動き始めた。
日本水兵が「サセボ」に向かうところだ、と知らせてくれた。
アリョールは艦の損害大きかったが、また多数の負傷者も抱えていた。
副長シドロフ、機関長パルフェノフ、士官ルムス、サケラーリ及びマザレフスキーは日本の戦艦アサヒに収容され、乗組員の約半数が同艦へ移乗させられた。
負傷者は全部アリョールに残り、艦首附近の比較的損害の少ない部分へ移された。
アリョールには日本の艦長、機関長が任命された。八十人の日本海軍の機械員及び汽罐員が乗り込んできて、同艦を最寄の日本の港「マイヅル」へ回航する任務に就いた。
この処置が終わると日本の艦隊は隊列を組み、それぞれの方向へと姿を消した。
アリョールは駆逐艦に護衛され海上に残されたが、その翌日マイズルに入港した。
負傷した士官や兵員たちは上陸し、マイズル海軍病院へ収容された。
アリョールの兵員たちは三日間、戦艦朝日の艦上で生活をした。
その間、ノビコフ・ブリボイは、盛んに『日本人の優れた点』について思いを巡らせている。
ノビコフは言う。
彼らは陣形運動が見事であり、その快速を利用して艦隊を有利な状態においた。
射撃に秀でており、その砲弾は仮令、装甲帯を貫通しなくて艦に大火災を生じさせて、我々乗組員の心理に戦慄的な衝撃を与えることができた。
このことはロシア暦五月十四日の大海戦で、我々は身にしみた。
さて、その他には何があるのか?
ノビコフは、アサヒの艦内を観て、その勝れた建造振りに感嘆した。
備え付けられた機械装置は、全て最新の要求に応えるよう設計がなされていた。
無駄な余裕はアサヒにはなかった。
贅沢な飾り付けや上甲板の木造建築物など一つもなかった。

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ツシマ沖の海戦(その百八十五)THE Battle of Tsushima
2007-01-05 Fri 01:29
回り道を過ごしすぎたが、元の場面に戻ることにしよう。
戦艦朝日の広い下甲板では、ロシア水兵たちの酒宴は続いていた。
四・五人の酔っ払いがバルチック艦隊で流行っている歌を高唱していた。
「日本の駆逐と勘違い、沈めてみればただの漁船」
日本の番兵も、それに釣られて東洋の調子のこもった民謡を唄った。
ノビコフ・ブリボイの描写を借用すると、「頬骨の突き出た赤銅色の顔の番兵は、黒い眼を細めて、身体を揺さぶりながら、金切り声で情熱的に唸った。片方の、背の低い痩身で、頭髪の黒い番兵は、歯を剥き出して、細い手を激しく動かしながら、ロシア水兵に何やら言いたそうな動作をした。」
これも酷く酔っ払ったセミョーノフ機関兵が、それに応じた。彼は日本兵を押し留めるように大きく手を振ると、
「まぁ、俺が言ってやるから、聞きなよ。俺とお前とは何のために戦争をしんだい?
ご主人様のためかい。俺には三人のガキがいるが、お前が俺を殺したとしてみな、俺のガキ三人は乞食になるよりほかねえんだぜ。」
セミョーノフ日本兵を肩を掴むと、情熱的にそれを揺すった。
「お前さん、子供は何人いるんだい?」
日本兵が何か言ったが、セミョーノフがすぐそれを引き取った。
「そうか。やっぱり三人いるのか。反対に俺がお前を殺したとすれば、お前の子供だって乞食になるんだぜ。なあ、兄弟、俺たちは無意味に戦ったんだぜ。今度からは、ご主人様抜きで、俺たちは仲良くやろうぜ。」
セミョーノフは自らの言葉に感動し、「ええい。お前を仲間と思って、接吻してやるよ。」と叫んで、日本兵を堅く抱擁して、頬に接吻した。
セミョーノフの汚れた頬を大粒の涙が伝わった。
彼はポケットから懐中時計を取り出すと、それを日本水兵の手に押し付けた。
「大将、俺からの贈り物だ。これりゃあ。機関兵セミョーノフの記念だ。」
日本兵は時計を手にして眺めていたが、どうしてよいのか分からない風情であった。
セミョーノフは、その時計を日本兵のポケットに押し込んだ。
その時、やっと事情が飲み込めた日本兵は白い歯を見せて笑った。
そして、そのお返しとして、竜の彫り物が施してある鼈甲の煙草入れをセミョーノフに手渡した。
このささやかな親善風景も、それほど長くは続かなかった。
下士官らしい日本人がやってきて、二人の日本兵を引き立てていったのだ。
衛兵たちに引っ張られながら、水兵は振かえって、「ロスケ、ロスケ・・」と叫んだ。

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ツシマ沖の海戦(その百八十四)THE Battle of Tsushima
2007-01-04 Thu 03:01
タンジールでは、艦隊に二隻が補充された。
病院船アリョールと四百トンの貯蔵能力を持つ冷凍船エスペランツァである。
この新鋭戦艦と同名の、三本マストに二本煙突で船体を真っ白に塗りたて、赤十字の旗を揚げた美しい病院船は、皆の視線を集めた。
アリョールとはロシア語で「鷲」の意味である。
それが病院船に相応しい名前であるかどうかは、少々疑問ではある。
露暦十一月四日夜八時、提督から信号があった。
「明朝六時出港にあわせて汽罐の用意を行え。航海予定七昼夜」
タンジールを出港後、しばらくイギリスの巡洋艦の艦影が後方の水平線上に見え隠れしていたが、カナリア諸島の緯度辺りまで来ると何れかへ立ち去っていった。
例の事件については、イギリスはその審理をハーグの国際裁判所へ移すに同意した。そこに権威者が集まり、ロシア艦隊が襲撃を受けたのは事実か、それとも妄想に駆られて漁船団を敵艦隊と見間違えたのかを判断することになった。
少しわき道に入りすぎたので、事件の結末だけをかいつまんで記すことにする。
ロシア政府は死亡または負傷した漁民への補償として6万5,000ポンドを支払い、かつ沈没したトロール船の代わりに新しい船を提供することに同意した。
後になって分かったことだが、カムチャッカが報告してきた日本の水雷艇とは、実際にはドイツの駆逐艦三隻であった。
ドイツ政府の発表によると、この三隻はデンマークの領海でバルチック艦隊を発見し、「好奇心に駆られて」追尾したとのことであった。
これは、ロシア艦隊にとって不幸なめぐり合わせであった。
バルト海から北海に通ずる海峡で敵がロシア艦隊攻撃を準備している、という情報は、ロシア艦隊がランゲランド島の海峡に停泊している時から、しきりにロジェストウエンスキーの下へもたらされていた。
艦隊の士官たちも日本の駆逐艦、潜水艦又は水雷発射装置を積んだ商船から攻撃はあり得ることだと、信じていた。
日本の同盟国であるイギリスは無論のこと、中立国ながらロシアを嫌っているスエーデンやノールウエイとの関係からすれば、日本海軍がそれを企てることは決して不可能ではない。
現にイギリスの造船所では、日本のために駆逐艦を建造中ではないか。
「我々は、リバウ出港以来日本海軍の襲撃に備えて、絶え間ない緊迫に身を浸してきたので、発砲下令と同時に興奮の極に達した」
戦艦アリョールの乗員ラリオノロフ大尉が証言しているとおり、砲員たちは狂騒状態になり発砲を続けていたのだ。
しかし、ロシア艦隊の内部でも、日本の水雷艇攻撃を疑う声はあるにはあった。
あの事件後、いくら日本海軍でも中立国の領海で攻撃をしかけることはあるまい、いや日本人ならやりかねない、という議論が各艦で戦わされていたのである。
だが、所詮はそれも宛て推量に過ぎず、盛んに議論をすればするほど、皆の精神は落ちこんでいくばかりであった。

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ツシマ沖の海戦(その百八十三)THE Battle of Tsushima
2007-01-03 Wed 07:40
翌日は風が止んだ。
海面は静かになり、太陽の光を照り返していた。
全艦石炭搭載作業が再開された。
司令官が、仕事を早く終えた艦に賞金を出すことを約束した。
アリョールでも熱のこもった作業が開始された。
巻き上げ機が轟音をたて、艦全体が炭塵の黒い霧に覆われた。
一時間に五十トンの石炭が積み込まれた。
この猛烈な作業が一昼夜も続いた。
その間睡眠もとらず、休息もしなかった。僅かに食事時間に休むだけで゛、作業は継続された。
やっと作業が終わったときは、皆、足がふらついた。
泊地には、あの騒動の犯人、工作艦カムチャッカがいた。
あの夜、パニックを引き起こした通信の詳細を皆が知りたがった。
アリョールの水雷科長のニコノフの弟がカムチャッカの副長をしいる関係で、彼はカムチャッカを訪れ、仔細を聞きだしてきた。
それによると、カムチャッカでは、乗員のいずれもが四隻の駆逐艦から襲撃されたと断言した。
そのうちの一隻が魚雷を発射したときの発火炎も、皆が見た。
カムチャッカは四十七ミリ砲を三百発ちかく発射して撃退した。
砲弾は船首甲板と煙突の間に命中して、炸裂するのを認めた。
彼らは異口同音に、口を揃えた。
艦隊の先頭を進んでいたスワロフの士官たちも、対向から全速力で近づいてくる三本煙突の駆逐艦を見た、と確信ありげに言った。
しかし、日本の駆逐艦がいたという証拠は何処にもなかった。
ウラジミール・コスチェンコは、我が艦隊の目撃証言だけでは不十分である、と記している。
奇怪な事件は、解決の兆しも見せなかった。

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ツシマ沖の海戦(その百八十二)THE Battle of Tsushima
2007-01-02 Tue 01:46
タンジールから東に三十マイルの地点には、ヨーロッパとアフリカを隔てる幅十三キロのジブラルタル海峡の入口が控えている。
イギリスがこの要衝に、不落の要塞を築いたのはスペインから彼の地を奪取した一千七百四年のことである。
以来、附近の海面は、イギリス艦隊が我が物顔で跋扈する海域と化していた。
タンジールの泊地においても、お馴染みになった巡洋艦ランカスターが外洋に遊弋して、依然としてロシア艦隊の行動を見張っていた。
ニコライ二世の即位記念日には、同艦は祝賀の信号を送ってきた。
ロジェストウエンスキー提督は、これをイギリス側の休戦の証しとみなし、急遽幕僚の一人を答礼のために派遣した。
とかころが、イギリス艦隊の態度は頑なであった。
答礼使は乗艦すら許されず、已む無くボートから謝意を示して引き返すという無様な結果に終わった。
ランカスターの説明によると、港の検疫未済の者の乗艦を許可されない、とのことであった。
ランカスターは、この後すぐそそくさとジブラルタル方面へと姿を消した。
タンジールの港は、地形的に見て、西と北からの風を遮るものがなかった。
載炭作業が始まると、東風が吹き始め、メインマストに巻きつけられた短索が大きく揺れた。
夜に入ると、海は荒れ模様となり、大きな波が湾口から押し寄せてきた。
舷側に繋がれたドイツの石炭船が、打ちつけられることを恐れて、一時、作業は中止された。
この日の夕刻、艦隊の一部の艦が分離された。
戦艦シソイウェリーキ、同ナワリン、巡洋艦スウェトラーナ、同ジェムチウグ及び同アルマーズがフェリケルザム少将に率いられて地中海へ向かった。
この戦隊は比較的小型の艦で編成されており、スエズ運河を抜けて、マダガスカルまで行く予定になっていた。

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