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ツシマ沖の海戦(その二十九)
2006-07-31 Mon 13:05
今しばらく、黄海海戦についての記述を続けたい。
二回にわたる左回頭のすえ、第一戦隊は左砲戦に持ち込むことに成功した。
砲撃が開始されたのは、午後一時三十分、距離七千五百メートルに至ったときである。
旅順艦隊の砲撃は正確で、戦闘開始と同時に、三笠は直撃された。
犠牲者は十数名を数えた。
午後二時過ぎになると、戦場に到達するのが遅れていた第三戦隊が八雲を先頭にして、ようやく姿を見せた。
直ちに右砲戦に入ったが、その射程内には僅かにロシアの駆逐艦隊がいるのみであった。
両艦隊の主力同士の砲撃戦は、互いに有効な打撃を与えることなく推移していった。
その間にも、ロシア艦隊は、日本艦隊を振り切って逃走を図ろうとし、機を見て、旅順艦隊は左に転針した。
日本艦隊も直ちに追跡に移ったが、回頭に手間取り、両艦隊の距離は三万メートルにまで広がった。
そのため、午後三時二十分、戦闘が一時中断した。
追撃戦を繰り返している第一戦隊に、第三戦隊および第六戦隊が合流したのは、午後四時三十分のことである。
戦場を離脱した旅順艦隊は、東南方向へ航進した。
午後五時三十分、艦隊速度において優る連合艦隊は、再び距離七千メートルにまで旅順艦隊を追い詰めた。
ロシア戦艦部隊の殿艦ボルターワが、三笠に向けて初弾を発射した。
第二海戦の開始である。
艦隊同士の距離は縮まり、やがて並航戦となった。
午後六時三十七分、三笠が敵の先頭艦ツェザレビッチを追い抜きざま、その艦橋に向けて12インチ砲を斉射した。
そのうちの一弾が司令塔付近を直撃し、司令長官ウィトゲフト少将以下幕僚の身体を四散させた。これが後に「運命の一弾」と呼ばれるようになった、命中弾である。
さらには、その直後に艦橋に直撃弾を受け、艦長イワノフ大佐と操舵手が戦死した。
操舵手の死体が舵輪に凭れ掛かったため、ツェザレッチはヨロヨロと左への回頭を始めた。
単縦陣をとっていたロシア艦隊は、その状況を知らずに旗艦の行動に追随しようとした。
ソェザレビッチの左回頭は止まらず、そのまま後続艦の中へ突っ込んでいった。
後続艦は衝突を避けようとして、急転舵を行い、ロシア艦隊は大混乱に陥った。
この機に乗じて、日本側の猛攻が続いた。
しかし、夜陰に紛れた旅順艦隊は、日本側の包囲網を掻い潜り、旅順へと引き上げていった。
午後八時二十五分、司令長官東郷平八郎は、これ以上の夜間の追撃を断念した。

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ツシマ沖の海戦(その二十八)
2006-07-30 Sun 16:18
バルチック艦隊は、合計三十八隻の軍艦によって編成されていた。
その戦力の中心は、大型新鋭戦艦五隻であった。
スワロフ、アレクサンドル三世、ボロジノ、アリョール、オスラビアのいずれも排水量一万二千トン以上の大型艦である。
午後一時四十分、バルチック艦隊は依然として戦闘隊形をとれずにいた。
第一戦隊が、未だ左翼列の前面へ進出できなかったのである。
スワロフの艦橋では、参謀のセミーニョフ中佐が、双眼鏡から目を話すと、司令長官ロジェストウエンスキー中将に話しかけた。
「閣下、やはり敵は六隻でやってきます。」
中佐は、日本艦隊が味方の右前方に姿を現し、左へと針路を横切っていくのを認めたのである。
中佐は、以前、この提督と日本側が採るであろう戦法について、意見を交わしたことがあった。
中佐は述べた。
「八月十日の海戦では、日本側の第二艦隊は独立行動をとりました。今度も、同じく第一戦隊だけでやってくるでしょう」
八月十日の海戦とは、前年の同日旅順港沖の黄海に於いて日露海軍の間で行われた大規模な海戦のことであり、日本側は「黄海海戦」と呼んでいる。
この海戦により、ロシア太平洋艦隊はかなりの損傷を受け、以来、大規模な海戦が行われることはなかった。
明治三十七年五月二十五日の南山の戦いで、遼東半島は日本軍によって占領された。
旅順要塞は、これによって孤立し、さらに六月に入ってから、日本第三軍は、半島先端に位置する旅順の包囲網を完成した。
ロシア極東総督アレクセーエフは、旅順に逼塞する太平洋艦隊主力に対して、安全なウラジオストックに回航することを再三にわたって命令していた。
しかし、港外に待ち伏せいている日本艦隊を恐れる司令長官ウィトゲフト少将は、出港の先延ばしを続けていた。
しびれを切らしたアレクセーエフの上申により、遂に皇帝ニコライ二世から出港の勅命が下されることとなった。
八月十日午前六時十五分、旅順港外で警戒にあたっていた偵察艦から、「敵主力港外へ脱出セリ」と、円島沖に待機している三笠に通報があった。
東郷大将は、直ちに麾下の第一戦隊を率いて単縦陣を組んで旅順に向かった。
十二時二十分、南東に向かうロシア艦隊を発見した。
旅順港から十海里の地点である。
ロシア艦隊の陣容は、旗艦である「ツエザレビッチ」、「レトウィザン」「ポペータ」「ペレスウェート」「セワストーポリ」「ボルターワ」の戦艦隊を先頭にした、巡洋艦四隻、駆逐艦八隻、それに病院船一隻を従えたものであった。
司令長官東郷平八郎は、左一斉回頭を命じ、敵艦隊を外洋に誘い出そうと試みた。
これを観望したロシア艦隊は、左四十五度に転針し、日本艦隊の後方をすり抜けウラジォストックへの逃走を図ろうとした。
それを防ごうとして、日本側は左九十度の回頭でロシア艦隊を追いかけた。
この後も、両艦隊ともに何度もの転針を繰り返しながら、洋上の追従戦が行われた。
艦隊速度に勝る日本艦隊は、ほどなくロシア艦隊の前方に進出し、その進路を遮るように丁字型の陣形をとった。
連合艦隊は砲撃を開始し、ロシア側も直ちに応戦した。
旅順艦隊が出港したとの報告を受けたとき、近くの海上で監視に当たっていたのは、第一戦隊、第三戦隊、第五戦隊および第六戦隊であった。
出撃した旅順艦隊は、先ず南東に針路をとったため、第一戦隊が最もはやく会敵の機会に恵まれたわけである。
当時、旅順艦隊に配属されており、この海戦にも参加したセミーニョフ中佐は、自らのその体験に基づいた予想が的中した想いに駆られたのである。
中将は、双眼鏡を目に当てたまま、首を振った。
「いや。もっと多い。そら、見えた」
慌てて構えなおした中佐の双眼鏡の中にも、霧の壁を破って一艦ずつ艦影を見せる第二戦隊六隻が写っていた。
「さあ」と呟いた中将は、防弾用の鋼鐵に覆われた司令塔に向かうべく歩み始めた。
後に従う参謀長クロング大佐が、「諸君、配置に就きたまえ」と、幕僚たちに声をかけた。

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ツシマ沖の海戦(その二十七)
2006-07-29 Sat 00:00
午後一時四十分、三笠が北西微北に針路を変えた。
敵艦隊に対して風上の位置を占めるための運動である。
三笠の狭い露天艦橋には、大人数が詰め掛けていた。
参謀長の加藤友三郎少将が痩身を強風に嬲らせながら佇立している。
望遠鏡を構えたまま、静かに敵を眺めていた。
三笠艦長伊地知次郎大佐が、剛い顎鬚を蓄えた赤ら顔をきっと敵に向けたまま、その横に立っている。彼は目を細めるようにして肉眼で敵を凝視していた。
羅針盤の傍らには、床に広げた海図を覗き込んでいる士官の姿があった。
航海長の布目満造中佐である。
その後ろには、手にクロノグラフを握った砲術長の安保清種少佐がいる。
彼らから半歩ほど前に、司令長官東郷平八郎大将がやや足を開いた形で立っていた。
首からつるした自慢のカールツァイス製の双眼鏡を時折、かざして敵影を追った。
左手では、長剣の柄に左手を置き、双眼鏡を動かすときを除いて、微動だにせず立ち尽くしていた。
甲板後部に備え付けられている測距儀に取り付いているのは、長谷川清少尉である。
東郷大将の左後方には、ノートを手にした参謀秋山眞之中佐が控えていた。
測距士の長谷川少尉が、時々、大声で敵との距離を報告した。
それ以外の話し声は聞えず、風と浪の音がはっきりと耳にできた。
ロシアの軍艦は船体が黒に塗装されており、煙突は黄色に塗られていた。
それは、日本艦隊の兵員にとって、敵の識別を大いに助けることとなった。
彼我の距離は一万二千メートルと思われる。
長大なロシア艦隊の後尾は、まだ濠気の壁の彼方にあった。

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ツシマ沖の海戦(その二十六)
2006-07-28 Fri 01:11

ただし、三笠の戦闘詳報は、次のように記している。
「三笠は、敵が近いのは、承知したがまだ、見えない」
視認した艦影は、バルチック艦隊を先導する第三艦隊であることを、三笠も直ちに認識してしいたのである。
一方、ロシアの艦隊においても、この時期、日本艦隊の主力を発見した旨の記録を残している(千九百四、五年露日海戦史)。
「此日午後一時十五分、日本ノ主力艦隊ガ左舷艦首三点ノ方位ニ於テ、我ガ航路ニ殆ド丁字形ノ進路を取リツツ進航スルヲ認メタリ」
ただし、日本側との間の時間的な誤差は顕著である。
この時期に、バルチック艦隊が日本連合艦隊の姿を視認できているはずはなかった。
しかも、連合艦隊が、かの有名な敵前回頭を行ったのは、はるかに下って午後二時七分のことである。
前述したバルチック艦隊の陣形変更命令が下令されたのは、午後一時二十分である。
同艦隊司令長官ロジェストウエンスキー提督は、麾下の右翼列第一戦隊に速力十一ノットに増速し、左四点一斉回頭を行うことを命じたのである。
すなわち、提督は、第一戦隊に左翼列の前方に挺進して、単縦陣を組むことを望んだのだ。
しかし、九ノットで航進している左翼列を追い越すのに、第一戦隊は手間取った。
午後一時二十八分、三笠は西方の濠気の中に、第五戦隊を発見した。
続いて、第六戦隊が海霧の幕を破って姿を現した。
午後一時三十一分、三笠は南南西に針路を変更した。
予想会敵地点への変針である。
午後一時三十九分、三笠は南西の方角にバルチック艦隊を遥かに視認した。
折からの強風が海霧を払い、視界は八海里以上に開けていた。
「遂ニ敵艦隊ヲ認ム」
三笠の艦内にバンザイの歓声が木魂した。

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ツシマ沖の海戦(その二十五)
2006-07-27 Thu 08:16
対馬海峡は、依然として南西の風が強かった。
しかし、それが海面を覆う海霧を吹き払うことはなかった。
午後一時、その風に背中を押されるようにして、バルチック艦隊は北東に航進を続けた。
同艦隊の右前方には、巡洋艦笠置、千歳、音羽及び新高により編成された第三戦隊が縦列で進んでいた。
左前方には、二列に並んで航進する日本本軍艦の一団があった。
第三艦隊所属の第五戦隊巡洋艦厳島、戦艦鎮遠、巡洋艦松島、同橋立及び第六戦隊巡洋艦須磨、同千代田、同秋津洲がそれである。
北東からは、連合艦隊の主力が遠来の敵を求めて急行していた。
第一艦隊第一戦隊の戦艦三笠、同敷島、同富士、同朝日、装甲巡洋艦春日、同日進に加えて、第二戦隊巡洋艦出雲、同吾妻、同常磐、同八雲、同浅間、同磐手の計十二隻である。
その後方には、第二艦隊第四戦隊巡洋艦浪速、同高千穂、同明石、同対馬が控えていた。
付近の海上は、海面に張り付いた濠気のため視界は五、六海里に狭められていた。
浪も高く、第一戦隊に従う通報艦龍田のような小艦は、航行にも支障をきたすほどであった。
龍田は僅か八百六十六トン。
龍田は記録している。
「艦ノ動揺激シク、傾斜三十度以上ニ達シ、殊ニ風上ニ向ウ際の如キハ、怒涛甲板ニ躍リテ飛沫艦橋ヲ襲ヒ、距離測定儀、望遠鏡、双眼鏡悉ク海水ニ浸サルルニ至レリ」
この事情は大艦においても、同様であった。
「潮水屡艦内ニ潜入シ、中甲板砲台ノ如キハ、潜水脛ヲ浸スルニ至レリ」
九千七百三十三トンの出雲の記録である。
司令長官東郷平八郎大将は、三笠の露天艦橋で、両脚を踏ん張り動揺に耐えていた。
飛沫が絶えず降りかかり、手にした双眼鏡のガラスを濡らした。
東郷は、時折、ポケットから取り出した小さな布切れで、それを拭き取った。
午後一時十五分、三笠は南西微西の方向に微かな艦影を認めた。

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ツシマ沖の海戦(その二十四)
2006-07-26 Wed 09:01
司令長官ロジェストウエンスキー中将は、結局、単縦陣への復帰を命令することは、なかった。
「吾が艦隊の運動は、未熟である」
と、大仰に肩をすくめただけであった。
同じ時刻、アリョールの艦上では「起床、お茶を飲め」という号令が出された。
この時期に到っても、兵員たちの多くには、いつもの習慣である午睡が許されていたのだ。
この戦艦には銅で作った巨大な湯沸器が五、六個備え付けられていた。
その湯沸器の前に湯呑を手にした兵員たちが集まってきた。
彼等はヒカピカ光る湯沸器から、目覚まし用の熱い茶を注いでもらった。

一方、午前零時二十三分、三笠は沖ノ島北方を東向きに通過した。
二分後、和泉からの電文が受信された。
「敵艦隊、正午、壱岐国若宮島ノ北十二海里。針路北東微東」
さらに、厳島より、「我レ三六三地点。針路東微南」、
続いて、笠置からの「敵艦隊三○七地点。針路東北東。展望五海里」の電報が飛び込んできた。
司令部の困惑は、頂点に達した。
和泉も笠置も敵の進行方向は北東である、と告げている。
然るに、厳島のみが、それを東微南という。
厳島電によれば、敵は踵を返したとしか思われない。
「おかしなこつ・・・。敵ば来っのか。帰るんつもりんじゃろか」
東郷大将も、思わず慨嘆の言葉を漏らした。
午後零時三十分、須磨が発信した。
「敵ノ針路北北東」
同艦は、第三艦隊第六戦隊旗艦である。
第六戦隊は、第三艦隊の第五戦隊に後続する戦隊である。
三笠司令部は、当然のことながら、厳島電がいう敵針路の訂正電であると、これを理解した。
程なくして、三笠の三六式無線機が鳴った。
「敵艦隊北東に変針、三○七地点」
 厳島の発信である。
これで敵針路は、一先ず統一された。
司令長官東郷大将は、直ちに全艦隊に針路の変換を命じた。
三笠を先頭にした単縦陣は、沖ノ島北東九海里の地点で、西に針路を変えた。
かくて一路会敵を目指すこととなったのだが、連合艦隊司令部は、一抹の不安を抱えたままであった。
三笠の露天艦橋では、加藤参謀長と秋山参謀は、床に海図を広げて屈みこんでいる清河航海参謀を捉まえて、質問を浴びせ続けた。
―敵はどこだ。
清河は、ただ返答に窮するばかりであった。
視界は相変わらず悪く、せいせい五海里というところであった。
黒潮に乗った連合艦隊は、ひた走り続けた。

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ツシマ沖の海戦(その二十三)
2006-07-25 Tue 00:00
殿艦のアリョールは戸惑った。
既に後続の第二戦隊の先頭艦オスラビアが左舷に迫ってきている。
司令塔では艦長のユング大佐が金切り声をあげた。
「運用長、間違っているのではないか。信号は一斉転回らしいぞ」
ユング大佐は本来、謹直で柔和な性格の船乗りであった。
ただ、少々心配性で、それに帆船時代のマドロスの常で気短な面もまた見受けられた。
ところが、咎めるように話し掛けられたサトケーウィチ大尉は怯みはしなかった。
「そんな筈はありません。信号は再度、信号帳で調べました」
仕事の上ではなはだ几帳面な、この運用長に手抜かりはなかった。
それは彼の自信たっぷりな応答となって現われていた。
ユング艦長は、それでも完全に納得はしなかった。
傍らの当直将校を振り返って、「スラウィンスキー大尉、調べてくれないか」と、言った。
慌しく当直将校が信号帳をめくった。
「間違いありません。順次転回の信号です」
「ボロジノが間違っているのです」と、副直将校の若い少尉が口を添えた。
間もなく、この揉め事が解消されることとなった。
ボロジノが慌てて舵を引き直して、アレクザンドル三世の後を追い始めたからである。
「馬鹿艦長どもが」
スワロフの艦橋では、ロジェストウエンスキー提督が、いつものように口汚く罵った。
精力的なうえに苦労性なこの提督は、スワロフの艦橋に専用の肱掛椅子を持ち込んで、昼夜を問わず其処で過ごすことが多かった。
そして、自分の艦隊の行動から片時たりとも目を離そうとはしなかった。
戦列を乱したりする艦があると、たちまち肱掛椅子から身を起こし、声を荒げて「無能」な部下たちを罵倒し始めるのか常であった。
すると、艦橋は凍りついたような恐怖に満たされ、参謀、乗組士官、信号兵、伝令水兵などが息を飲んで灰褐色の短い髭に縁取られた、司令長官の怒りに燃える顔を見守るのだった。
午後一時、第一戦隊がようやく独立した単縦陣となった。
第一艦隊と第二、第三戦隊は二列縦陣を作り、北東二十三度の針路を進んだ。
各縦陣の間隔は三十ケーブルである。
第一戦隊は十一ノットの速力で、次第に左縦陣の先に頭を出していった。
午後一時二十分になると、オスラビアとアリョールがちょうど真横に並んだので、第一戦隊は九ノットに減速し、そのまま並行隊形で進むことになった。
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ツシマ沖の海戦(その二十二)
2006-07-24 Mon 00:00
八点鐘が鳴って、正午が告げられた。
アリョールの艦上では、当直が代わり、艦の司令部は戦闘に備えて司令塔内に移った。
艦隊はツシマの南端に差し掛かっていた。
スハロフからの信号により、各艦は北二十三度東に進路を変えた。
午後零時十分、まだスワロフの士官食堂では、士官たちが乾杯を繰り返している時に、突然警報を告げる太鼓の音が響き渡った。
日本の巡洋艦隊が再び霧の中から現れたのである。
「あいつら、また、きやがった」
誰かが、うんざりしたように叫んだ。
しかも、その一部が艦隊の前方を横切るような行動をとり始めたのである。
この命令は、片岡中将が麾下の第六戦隊に発したものであり、バルチック艦隊が針路を変えたため、それを正面から確かめようと試みたものであった。
ロジェストウエンスキー提督は、日本艦隊のこの奇妙な行動の真意を掴みかねていたが、
続いて、四隻の日本駆逐艦が同様な行動に入ったとき、「かれらは我々の前方に機雷を撒いたのではないか」と、直感したのであった。
ロジェストウエンスキーを驚かせた、この駆逐艦群は第二艦隊に所属する第四駆逐隊であった。司令鈴木貫太郎中佐は、その快速を利して、敵の前面をゆうゆうと横切ってみせたのだ。
「前から見れば正しく測定できます」
後年の鈴木の言である。
正午が過ぎてから、海面に立ち込めた霧が濃くなってきた。
ロシア艦隊旗艦のマストに信号旗が掲げられた。
「第一戦隊右八点正面変換。左八点一斉回頭」
最新鋭戦艦四隻を右九十度に展開させ、続いて各艦は左九十度に進ませ、横一列になれとの命令であった。
神経質なロシアの司令長官は、前方に撒かれた機雷現場を避けながら、煩く付き纏う日本の老朽巡洋艦隊を追い払おうとしたのである。
艦隊運動を苦手とするロシア艦隊も前段の運動は見事に成功した。
ところが、左舷九十度の段階で大混乱が生じた。
二番艦アレクサンドル三世が、旗艦の信号を見誤ったのである。
同艦は、スワロフに同航してしまったのである。
旗艦の後尾を追いかけるアレクサンドル三世を眼にして、驚いたのは、後続する三番艦以下の艦長たちである。
自分たちが信号を誤認したと思い込んでしまったのである。

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ツシマ沖の海戦(その二十一)
2006-07-23 Sun 10:32
露天艦橋に三脚で備え付けられた長い望遠鏡を使って、飯田が凝視しているのは、三笠の右舷に拡がる水平線方向である。
視界は相変わらず狭く、せいぜい五海里程度である。その先はびっしりと立ち篭める海霧の壁に遮られていた。
三笠の狭い露天艦橋は人で溢れていた。
双眼鏡を構える艦長の伊地知大佐の右隣には航海長の布目満造中佐が居た。
二人の後ろには、砲術長の安保少佐が控えていた。
その他には、砲術長付の中尉、測的係の少尉、航海士少尉、伝令少尉候補生二名、伝令信号兵、伝令水兵がそれぞれの配置についていた。
東郷は彼等の一歩前に立ち、胸に下がった双眼鏡に軽く右手を添えたまま、穏やかな表情で左舷の海上を眺めていた。
東郷の後ろでは、秋山首席参謀が、左舷の方向に向って目を細めていた。
秋山は、この戦争中一度も双眼鏡を手にしたことはなかった。
双眼鏡を使えばなるほど目標ははっきり見えるが、その代わり視界は狭く、その一部が覗けるに過ぎない。自分は肉眼をもって戦いの大局を知れば、それでよいのだ。
彼は常々、周囲にそう語っていた。
この日の秋山は風変わりな格好をしていた。
彼は軍装の上着の上から剣帯を締めていたのだ。
無論、羅針盤に磁気の影響を与えるおそれのある短剣は、皆と同じように帯びてはいなかった。
若い士官が、その姿を見て噴出しそうになり、慌てて下を向いて笑いを噛み殺した。
秋山の年来の持論に、「褌論」というのがあった。
褌という文字は衣編に軍と書くことでも明らかなように,戦いに際して必ず締めるものである。それをしっかりと臍下に締めて力を入れれば、心気が丹田に落ち着き、逆上が防がれ、知力気力の発作が自在となるというものである。
この日の秋山は「革バンドを上着の下にしていたのでは腹が締まらぬ」と言って「特に上衣の上から締め、一種異様な風体で戦いに挑んだのだ」と、彼と親交のあった安保少佐が、そのことについて述懐している。
三笠の露天艦橋は、艦橋と海図室の屋上部分に当たり、僅かな手すりに囲まれた吹きさらしの狭い場所である。
前方部分には、羅針盤が設置してあり、その両脇には伝声管がそれぞれ口を開けて立っている。
羅針盤の周囲には、炸裂する弾片防御の目的でハンモックが緊縛されており、既に戦闘態勢は整っていた。
甲板後部には、測距儀が備え付けられている。
露天艦橋へは、旗甲板から小さなラッタルを伝って昇っていく。
眼下には、前部主砲塔から巨大な30センチ二連装の砲身が突き出し、砲塔の天蓋の上には、三本の潜望鏡が顔を覗かせている。

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ツシマ沖の海戦(その二十)
2006-07-22 Sat 14:24
厳島と和泉の間でも、まだ盛んに電報が交換されていた。
午前十一時十六分、三笠は厳島の和泉宛の電報を傍受した。
「敵ノ主力ハ右翼ナリヤ」
和泉の返事は、午前十一時二十分に発せられた。
「左様、左翼ノ先頭ト思フ」
さらに和泉電は続いた。
「笠置ヨリノ敵ハ、右翼先頭ト思フ」
これが、午前十一時三十分の発信であり、それを追いかけるように、
午前十一時四十分、第二電が空を飛んだ。
「午前十一時三十分、敵ノ先頭艦三○六地点ノ北東、針路北東微東」
和泉の現在位置、三○六地点から、経度にして十分右よりの地点である三○七地点に笠置がいるのであれば、視認しているのは敵の右翼列であろう、と推定しているのである。
連合艦隊司令部の困惑は途切れることがなかった。
和泉の推測によれば、敵艦隊の二列縦隊の間隔は、十海里にも及ぶこととなる。
「敵は、勢力を温存する為に分散突破を図るつもりなのか」
「いや、和泉が艦の位置を誤っている可能性も捨てがたい」
「しかし、厳島の電報も無視することはできまい」
司令部内は、甲論乙駁の状態と化したが、一同が納得できる結論には、容易に至りそうもなかった。
「何分にも、第三艦隊司令長官が接触部隊の最高指揮官でありましたから・・・」
清河参謀が、後になって触れたように、片岡中将の旗艦厳島が発する情報の取り扱いについて遠慮があったことは否めない事実である。しかし、情報の真否と発信者の階級の上下は無論、関係はない。
事実、笠置が自艦の位置を誤認していたのが、この騒ぎの真因であったった。

ところで、この間にも、連合艦隊の南下は続いていた。
正午ごろ、連合艦隊は、沖ノ島北方約十五海里の海面に達した。
「そろそろ見えてもよいころだが」
三笠の露天艦橋で、参謀の飯田久恒少佐が呟いた。
「左様。そろそろですな」
話しかけられた航海参謀の清河大尉が、これも小声で応じた。

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ツシマ沖の海戦(その十九)
2006-07-21 Fri 16:04
午前十時五十分、和泉の報告電が三笠で受信された。
「敵の兵力十五隻、ボロジノ型四隻、オスラビア、シソイ・ウェリキー、ナワリン、ナヒーモフ、左翼列セニャーウィン、アレクサンドル三世、オレーグ、アウローラノ順序ナリ。
ジェンチュグ型前衛。後続部隊仮装巡洋艦」
この戦型は、バルチック艦隊が、前述のごとく戦闘陣形に変形しつつある段階のものであるが、和泉は、それを二列縦陣と見取ったのである。
午前十一時五分、ようやく単縦陣に変形を終えたバルチック艦隊は、将兵が交代で昼食に入った。
これに先立って、午前十時三十分、日本側の各艦でも早めに昼食をとるように命令が出された。
食事が終わると、各艦では総員集合命令が下され、艦長からの訓示があった。
三笠においても、艦長伊地知彦次郎大佐が、総員を後甲板に集合させた。
「これより、本職最後の訓示を行う」
風力六の強風が、時折、伊地知の声を散らした。
「わが艦隊は、これよりニ、三時間後にロシア艦隊と相見えるであろう。長い期間の訓練は、ただこの一戦のためであった。全国民がわれわれに期待するところは、すこぶる大である。諸子の奮闘を願うばかりである」
最後に声を改め、「この世における最後の万歳を唱える」と言った。
訓示の内容は、後列の者にはよく聞き取れなかったが、全ての兵員が声を限りと、万歳を三唱した。
それは、偏西の風に乗って波濤の彼方まで響き渡った。

乗組員は甲板上でそそくさと食事を済ませた。
午前十一時六分、厳島が発信した。
「敵艦隊速力十二ノット。針路東北東」
午前十一時十分、三笠が厳島に質問した。
「敵ノ主力ナリヤ」
これに対する返電は、二分後に入ってきた。
「左翼主力ト認ム」
三笠の司令部では、参謀長の加藤少将と清河参謀が顔を見合わせた。
厳島が敵の左翼列を視認しているのであれば、当然のことながら、右翼列はその右側にいるはずである。ところが、和泉の報告によると、逆に左側に敵の縦列が航行しているという。
「左が右で、右が左というわけか。これは両艦のいずれかが、方向感覚を喪失しているのではないか」
秋山参謀が、皮肉交じりに慨嘆したが、流石に同調する者はいなかった。
海上には、依然として霧が立ち込めている。
視界は狭く、せいぜい五、六海里というところである。
しかも、両艦が報告してくる敵の進路は、互いに五、六海里離れているではないか。
どちらかを選択して、それに向かえば、霧中で敵とすれ違ってしまう危険性もなしとはいえない。
三笠が厳島へ急電を発した。
「和泉ニ問合セヨ」
二艦の間で、すり合わせをして、報告を纏めよ、の意である。
ところが、午前十一時十五分になって、第三戦隊の旗艦笠置からの通信が傍受された。
「敵ハ我ガ戦隊ノ現位置ヨリ南東七海里ニ在リ。吾三○七地点」
三○七地点とは、北緯三十四度、東経百二十九度四十分に位置し、その南東七海里といえば厳島の指す敵進路の東側に当たる。
連合艦隊司令部の中を困惑の漣が広がっていった。
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ツシマ沖の海戦(その十八)
2006-07-20 Thu 05:53
午前九時三十分、三笠の率いる主力艦隊はCI地点に至った。
艦隊はそこで、針路を南東二分ノ一南に変え、次の目標点であるSU地点へと船足を向けた。
同点は、沖ノ島北北西にある、予想会敵地点である。
第三艦隊旗艦厳島が会敵の第一報を三笠に打電したのは、午前十時二十分のことである。
「我レ、午前十時、三○五地点。針路北東微北。敵ノ主力ヲ後方約五海里ニ保ツ」
三笠の司令部では,歓声が起こった。
孤独な送り狼であった和泉に、ようやく援軍が現れたのである。
それを他所にして、海図室では清河大尉が、頭を捻っていた。
三○五地点は、北緯三十四度、東経百二十九度二十分であり、厳島が敵針路とする北東微北に伸ばした線は、対馬の東沖に至るものとなる。
和泉が報告した敵針路は、沖ノ島の西側へと線を描く。
「敵は変針したのか」
清河参謀が、咄嗟に浮かんだ疑念を思わず声にした。
午前十時二十八分、三笠の問い合わせ電報か厳島に向かって飛んだ。
「敵艦隊変針セバ、直ニ報告セヨ」
七分後、厳島が返電した。
「敵二八○地点。針路東北東」
二八○地点は、北緯三十三度五十分、東経百二十九度三十分、壱岐の西方約十海里の地点である。
同点から東北東に線を引けば、沖ノ島の東側を、和泉の告げる線と平行しながら走る線となる。
海図室で慨嘆のさざめきが沸き起こった。
何時の間にか、三本の線が描かれた海図を覗き込んでいた、東郷大将も、「どけんなこつね」と、ため息を漏らした。

この頃、ロシア艦隊は陣形の変更に熱中していた。
第一、 第二に属する戦艦は増速して左縦陣を追い抜き、戦艦だけの単縦陣を形作った。
輸送船団は右後ろへ下がり、巡洋艦がそれを護衛した。
第二戦隊の駆逐艦五隻が、それに加わった。
「モノマフ」がイズミの攻撃に備えて、輸送船団の右翼に回った。
さらに軽巡「ジェムチュウグ」と「イズムルード」の二艦が右側に位置をとり、第二艦隊の駆逐艦四隻も加わって、新鋭戦艦の縦陣に寄り添った。
それまでの航行陣形を捨てて、戦闘陣形に変わったわけである。
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ツシマ沖の海戦(その十七)
2006-07-19 Wed 17:45
和泉は依然として孤艦のままで、ロシア艦隊の右舷方向を並航していた。
ロシア艦隊が九州と対馬の間に接近して行くにつれて、九州方面から近づいて来る日本商船の姿が目撃されるようになった。
和泉には予想外の仕事が課せられることとなった。
ロシア艦隊の接近を知らず進んでくる、これらの商船に近寄っては、退避の警告を繰り返すこと数度に及んだ。
 やがて、和泉が壱岐島近くまで至ったとき、その眼前で異様な事態が発生した。
門司方面からやって来た一隻の陸軍運送船が真っ直ぐにロシア艦隊に向けて突き進んでいったのである。
この船は鹿児島丸といい、陸軍の補充部隊を満載して朝鮮に向う途中であった。
和泉は,当然のことながら仰天した。
「ロシア艦隊前方ニアリ。反転セヨ」
と、信号旗を掲げたが,鹿児島丸に反応は見られなかった。
それどころか、この船の上甲板に溢れた陸軍の兵士たちは、口々に歓声をあげ、ロシア艦隊に手を振っている。どうやら、黒煙を棚引かせながら堂々と航進していく眼前の大艦隊を日本艦隊と信じ込んでいる様子である。
鹿児島丸はますますロシア艦隊に接近して行く。
和泉の艦上からは信号兵が盛んに手旗を振って反転するよう指示するが、それに気づく気配もない。
 和泉の艦長石田大佐の面上から血の気が失せてしまった。
既に鹿児島丸は敵の射程内に入りこんでいる。
「警笛鳴らせ」
石田が叫んだ。
和泉は波頭を切り裂き、全速力で突進した。
悲鳴のような警笛が連続して響き渡った。
鹿児島丸の甲板上に群れている陸軍将兵たちが,初めて和泉に目を向けた。
「反転セヨ。前方ノ艦隊ハ敵艦隊ナリ」
和泉の手旗が懸命に語りかけた。
しかし、その努力は報いられなかった。
陸兵たちは手旗の意味が理解できなかったとみえ、ただ無邪気に手を振り、帽子を振り返すだけであった。仕方なく石田は艦を鹿児島丸に寄せ、メガフォンを口に当てると、「敵だ。敵だ。引き返せ」と声を限りに叫んだ。
和泉の乗員も口々に「引き返せ」と絶叫した。
驚いたことに、この時、鹿児島丸船上に「バンザイ」の声が沸き起こった。
接近してきた日本軍艦を目の当たりにして、感激した将兵たちの間で期せずして起こった歓呼の声である。
 石田は重ねて「敵だ。敵だ」と連呼したが、「バンザイ」「バンザイ」の騒ぎに打ち消されて、その声が鹿児島丸に届いた様子はなかった。
石田は焦り、更に警笛を吹奏させながら、自艦を鹿児島丸の鼻先に強引に突っ込ませた。
流石に異常を察知ものとみえ、陸軍輸送船上のバンザイの声も鎮まった。
この機を逸してはと、石田はメガフォンを口にして「前にいるのは敵だ。貴船は射程圏内に入っているぞ。直ちに博多方面へ引き返せ」と、声を限りに叫んだ。
今度こそ、反応があった。
見る間に、陸兵たちの間に動揺が広がった。
慌てて船内に駆け込んで行く兵士もいれば、船上を慌しく走り回る兵士の姿も見られた。
鹿児島丸の船長も、この期に及んでは流石に和泉のマストに翻る信号旗の意味に気づいたものと見え、彼の船は大きく孤を描き反転した。
そして、船足を増して九州方面へとそそくさと姿を消していった。
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ツシマ沖の海戦(その十六)
2006-07-18 Tue 00:00
午前七時十分、加徳水道を出ると、風波が激しくなった。
 三笠ほどの大艦でも、艦橋に立つとかなりの横揺れが感じられた。
三笠は、まず、CI地点へ向かうことにした。
同地点は、対馬北端韓崎の北東十海里の位置する。
この時期、前に触れたように和泉が信濃丸に代わって、バルチック艦隊の右翼列と接触し始めていた。
しかし、バルチック艦隊は濛気の彼方に見え隠れし、その陣容は容易に把握し難かった。
艦長の石田大佐は、時折、霧の切れ目から覗く明るい陽光を頼りに索敵に専念した。
午前七時二十八分、三笠の無線機が鳴った。
「敵艦隊十一隻以上。ジェンチュグ先頭。後尾病院船二隻。二二五地点」
和泉が第三艦隊旗艦厳島に向って発信した電信を傍受したのである。
三笠の艦橋で海図上に二○三地点と二二五地点を結ぶ直線が描かれた。
これで敵艦隊が東水道を目指していることは、ほぼ確実と推定できる。
三笠の幕僚たちの顔に安堵の色が浮かんだ。
午前八時、和泉は三笠に発信した。
「敵艦隊二三七地点、針路北東微東。速力十二ノット」
三笠の海図室で、航海参謀の清河純一大尉は、不審げに首を傾げた。
二三七地点とは、北緯三十三度三十分、東経百二十九度で、和泉の三十分前の電報にいう二二五地点からみれば二十海里も東寄りである。
後に分かったことであるが、前々日、前日ともに天候が悪く、各艦は自艦の位置を正確に測定できていなかつたのである。彼らは、その正確でない自艦の図上位置を基礎として、敵位置を報告してきたのである。三笠が戸惑うのも無理はなかった。
午前八時三十分、こんどは第三戦隊旗艦である笠置から入電した。
「第三戦隊二五一地点。速力十六ノット。針路北東微北」
五分後、和泉電が受信された。
「ジェンチュグ、単独前進。針路東。二五一地点」
三笠司令部は驚愕した。
敵は針路を変え、西水道に向かったのか。
それにしても、先ほどの笠置電によれは、二五一地点には、第三戦隊がいるはずである。
敵との接触はどうなっているのか。
急ぎ三笠は、笠置宛に打電した。
「敵ノ主力見ユルヤ」
午前八時五十分、「未ダ敵ト接触ヲ保タズ。我レ二五一地点。速力十六ノット。針路北東微北」
笠置の返電である。
これでは、第三艦隊と敵との間隔は開くばかりである。
敵情報は和泉一艦に頼ることとなってしまう。
「敵は和泉を攻撃するのではないか」
参謀長加藤友三郎少将が、側の秋山参謀に話しかけた。
「まだ、無事ですが、当然に撃沈を図ってくるでしょう」
「第三戦隊を急行させるべきだ」
「しかし、和泉と第三戦隊は同一地点にありと主張しております。一体、いずこに向かわすべきなのか」
両人は憮然として、沈黙した。
午前九時三十一分。
和泉からの敵勢力報告電が入った。
「戦艦五、一等巡洋艦ナシ。二等巡洋艦三、駆逐艦ナシ、水雷艇ナシ、特務艦八隻以上アリ。総数二十二隻以上見ユ。濛気ノ為メ判明セズ」
報告は、実際の編成とはかなり相違していた。
現実のバルチック艦隊は、戦艦八、海防戦艦三、装甲巡洋艦三、巡洋艦六他で編成された大艦隊であった。
しかし、それでも三笠の司令部は満足した。
それは、和泉が発した最初の敵勢力に関する報告であったからである。
「和泉もようやく落ち着いてきたな」
口には出さなかったが、艦橋にいた幕僚たちの誰もが、そう思った。

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ツシマ沖の海戦(その十五)
2006-07-17 Mon 00:00
予想を上回るロシア艦隊の射撃能力は、出羽を驚かせた。
旗艦笠置の舷側近くには、数条の水柱が立ちのぼった。
敵射程内に留まれば、かなりの被害を覚悟しなければならない。
出羽は各艦に対して、射程外に出ることを命じた。

日本艦隊が、倉皇として逃れ去ったことは、ロシアの兵員たちに、予想外の自信を与えることになった。
「何だ。たいした腕前ではないな」
出羽の砲弾も、一弾といえども命中を得たものはなかったのだ。
日本艦隊は、戦闘の継続を行うほどの力はないものとみえ、急に左へ変針した。
戦闘は、僅かに十分足らずで終了した。
「砲弾ノ無駄遣ヲスルナ」
スワロフに信号旗が揚げられた。
戦艦アリョールでも、味方の勝利だと思い、多くの者が、これを自慢した。
「ヘぇー。日本人目奴。あれじゃあ、とても俺たちの相手はできないな」
顎鬚の濃い、太った兵曹長が嘯いた。
「東洋の黄色いサルなら、あんなもんだ」
誰かが、もっと口汚く罵った。
 
午前十時三十分、アリョールの艦上では小休止の号笛が鳴った。
乗組員に酒と食事が配られた。
決戦に備えて早めの食事をとらせようとの配慮である。
士官たちは司令官食堂で昼食のテーブルについた。
午前十一時、装甲巡洋艦ナヒモフの艦内でも、昼食と酒の合図の号笛が吹かれた。
上甲板にラムの酒樽が持ち出され、水兵たちがコップを手に長い行列に並んだ。

十時三十分、アリョールの艦上では、小休止の号笛が鳴った。
乗組員には酒と食事が配られた。
既に旗艦スワロフのマストには「兵員交代で昼食を許可す」旨の信号旗がひらめいていたのだ。決戦に備えて早めに昼食を済ませておこう、との配慮である。
士官たちは司令官食堂で昼食のテーブルに着いた。
十一時、装甲巡洋艦アドミラル・ナヒモフの艦内でも、昼食と酒の合図の号笛が吹かれた。
上甲板にラムの酒樽が持ち出され、水兵たちがコップを手にして、行列を作った。
彼らはやがて戦闘配置についたままの、パンと缶詰の昼食にとりかかった。
食事の合間に彼らは配られた少量のラム酒で僅かに喉を潤わせた。
一方、士官室の方角からはオーケストラの楽の音に混じって、士官たちの「ウラー」の叫び声が流れてきた。艦隊の武威を称えて、一同がシャンパンのグラスを挙げているのである。
旗艦スワロフの士官会議室では、この日、皇帝の戴冠記念の祝宴の席が設けられた。
ロジェストウエンスキー提督は、朝から艦橋に詰めきっていたため、会場では副長のA・マケドンスキー中佐が祝杯の音頭をとった。
「皇帝陛下の神聖なる戴冠記念日たる本日、吾等は潔く祖国のために赤誠を尽くそうとしている。神のご加護のあらんことを。皇帝陛下並びに皇后陛下、ロシア帝国万歳」と、厳かに言った。
出席した士官たちは「ウラー、ウラー、ウラー」と、三度にわたって唱和した。彼らはシャンペン酒のグラスを手に、「神のご加護は我等にある。敵は尻尾を巻いて逃げていったではないか」と、陽気な口調で語り合った。

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ツシマ沖の海戦(その十四)
2006-07-16 Sun 00:00
出羽重遠中将の率いる第三艦隊は、既に午前五時五十分という早い時期にロシアの病院船一隻を発見していた。更には、はるか遠方に十数条の煤煙の連なりさえも認めていたのだ。しかし、霧のため、まもなくそれらの艦影も見失ってしまった。
出羽の艦隊は霧の中を走り回って極力索敵に努めたが、その努力は実を結ぶことはなかった。午前七時に至り、第三戦隊は和泉の無電を受けることに成功し、敵艦隊はもはや北方にあることを知った。直ちに北上を開始したが、結局、ロシア艦隊と再び接触できたのは。午前十時三十分を過ぎてからのこととなった。第三戦隊が対馬神崎の南方に二十五キロ附近の海域に至ったとき、右舷前方の濃い霧の中に微かな敵影を視認した。
出羽の戦隊は,出足の遅れを取り戻すべく、足早に敵に接近していった。

九時四十五分、今度は左舷前方の霧の中から、海防艦チンエンとマツシマ型の巡洋艦三隻からなる敵艦隊が出現した。彼我の距離は六、七マイルである。
アリョールの前部艦橋で、双眼鏡を構えたユング大佐らが懸命に目を凝らしていた。
「先頭の一本煙突の艦は、イツクシマだな」
やがてユング大佐が、確信ありげにゆっくりと呟いた。‘
「艦長、マツシマ、ハシダテも居ります」
傍らに立っていた砲術長のシャムシェフ大尉が続けた。
「二本煙突はチンエンか。いずれもBクラスの旧式戦艦だ」
「はい。カタオカの指揮する第三艦隊だと思われます」
「シャムシェフ君。合戦準備を命じてくれ給え」
アリョールの艦内には戦闘警報が鳴り響き、左舷の砲と前部の十二インチ砲が敵艦に向けて照準された。
日本の旧式巡洋艦群は暫らく、ロシア艦隊と平行していたが、やがて追い越しにかかった。
十時頃、ロジェストウエンスキー提督の信号を受け、右側艦列に位置するロシアの各艦は速力を十一ノットに上げて左側艦列の前方に出るべく、運動を開始した。
それまでの巡航隊形を捨て、戦闘隊形に移るためである。
同時に、左側艦列の後尾に位置する巡洋艦モノマフには、依然として執拗に付きまとうイズミを追い払うよう命令が授けられた。
海防艦チンエンの艦隊はやがて、ロシア艦隊を追い越し、前方遥かに姿を消した。
それと入れ替わるように、ロシア艦隊の左舷方向に、四隻の日本快速巡洋艦が姿を見せた。
デワ提督の率いる「チトセ」「カサギ」「ニイタカ」「オトワ」の四艦であった。
四隻の巡洋艦は,ロシア艦隊と同じ針路を保ちながら、次第に接近してきた。彼らもまた、日本艦隊の前衛であり、ロシア艦隊の動静を逐一、トーゴー提督に報告する任務を負わされているに違いない。
仮装巡洋艦ウラルの艦長から「本艦の通信機をもって、日本巡洋艦隊の通信を妨害する許可を求める」と、ロジェストウエンスキー司令長官宛てに信号が送られた。ウラルには六百マイルの距離まで届く強力な無線電信機が積まれていたのだ。
司令長官からの応答は「日本側の無線の邪魔をすることなかれ」という素っ気ないものであった。
ロシア艦隊の幕僚たちは、この指示に疑問を抱いたが、極端な独裁者的気質で知られる彼等の司令長官に諌言出きる者がいようはずもなかった。このような道理に合わぬ命令を下した長官の真意は誰もが測りかねたが、ただ、仮装巡洋艦の艦長風情の差し出がましい意見具申が、司令長官の自尊心をいたく傷つけたのではないかとの推測を一同が共有することはできた。
間もなく、スワロフの信号桁には「本日は皇帝陛下の即位記念日である。各艦において祈祷せよ」を意味する旗旈が掲げられた。
アリョールでもホイッスルが吹き鳴らされ、当直の士官が「総員祈祷へ」と号令を掛けた。
兵員たちは居住甲板に入り、礼拝堂の聖像の前に集まった。
もじゃもじゃした赤い顎鬚を貯えた艦付牧師がせかせかと皇帝の長寿を願う祈祷文を唱えた。それに続いて、兵たちもお座なりな祈祷を済ませると、ある者たちは皇帝の悪口を呟きながらそそくさと持場に散っていった。
この頃、ロシア艦隊の陣形が変更された。
第一、 第二戦隊の戦艦は速力を上げ左縦列を追い越し、戦艦のみが単縦陣を作って航進し
始めた。第一駆逐隊と巡洋艦ジェムチェクとイズムルドが第一戦艦部隊の横に回り、巡洋艦部隊は輸送船団を連れて後方へ移動した。
後方警備に当たるため、第二駆逐隊は長い隊列の最後尾についた。
航行陣形から、戦闘陣形へと変更されたのである。
旗艦スワロフ舳先は依然として、北五十度東を指していた。
左舷の方向から、四隻の日本巡洋艦がますます近づいてきた。
彼我の距離はすでに四マイルほどである。
ロシア艦隊の左舷側に位置する各砲台では、砲手たちが引き金に手をかけたまま、眼鏡の中の敵巡洋艦隊を凝視していた。
耐え難い緊張の時が過ぎた。
何故「撃て」という命令が出されないのか。
下士官兵たちは内心の苛立ちを隠そうとはしなかった。
制止を繰り返す士官たちの面上にもやがて焦りの色が見え始めた。
その時、緊張の糸が突然切れた。その時、アリョールの六インチ砲手は、確かに発砲の命令を聞いたような気がした。
戦艦アリョールの左舷中部六インチ砲が突然火を吹いたのである。
唸りを立てた砲弾は、敵の二番艦の艦首附近に水煙を上げた。
それが各艦に対する砲撃の合図となった。
誰もが戦闘開始の命令が出されたものと勘違いをしたのである。
出羽の艦隊は、たちまちロシア製の砲弾が巻き上げる水柱に取り囲まれた。
それらは、日本海軍の予測を上回る正確さで、旗艦である笠置の舷側間近に着弾した。
無論、日本艦隊も反撃した。
日本製の砲弾も正確な弾着を見せた。
ロシア艦隊の乗員を驚かせたのは、日本艦隊の砲弾が水面に落下する度に、屹立する水柱に混じって、黒い煙が渦巻きながら沸き上がることであった。
彼らは、それは試射用に特別に作られた砲弾であろうと推測した。
しかし、それは日本側にとっては通常の榴弾に過ぎなかった・
秘密は、その使用する火薬の成分にあった。
開発者である海軍技師の名前をとって下瀬火薬と呼ばれるこの炸薬は、原料はピクリン酸であり、通常の火薬に比べてその爆発により大量の熱を出すところに特徴があった。ただ、余りにも敏感すぎるため、過早爆発を起こす欠点を有していた。
しかも、ピクリン酸は金属と化学結合して鋭敏な化合物を作るという厄介な性質を有していた。そのため、実用上の困難が伴った。下瀬雅充は弾体内壁に漆を塗り、さらに内壁とピクリン酸の間にワックスを注入してこれを解決した。
日本海軍がこの火薬の開発に成功したのは明治二十一年のことであるが、これについは面白いエピソードが残されている。その前年、フランスの火薬専門家が発明した新火薬の特許の売り込みが日本に持ちかけられるという事件があった。当時、フランスに駐在していた富岡定恭海軍少佐は、フランス人の研究所を訊ねた際に、その試薬を調べる振りをしながら爪先に僅かな資料を揺りつけ、持ち帰って分析した結果、それがピクリン酸であることを知ったのだ。

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厚生年金>離婚時分割で、支給額の目安教えます 厚労省
2006-07-15 Sat 06:36
厚労省は来年4月からの厚生年金の離婚時分割を控え、離婚を検討している50歳以上の人を対象に今年10月以降、分割で支給額がどう変わるかの目安を伝えることを決めた。50歳未満の人にも離婚当事者双方の保険料納付記録などを示す。離婚しても生活していけるのかなどの判断材料となる情報を事前に伝えるのが目的だ。
(ヤフー・毎日新聞) - 7月15日3時3分更新から引用

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ツシマ沖の海戦(その十三)
2006-07-15 Sat 00:33
 日本艦隊の中には、これより前に、既に敵に接触している実戦部隊があった。
第二艦隊に所属する第四駆逐隊の四隻の駆逐艦である。
朝霧、村雨、朝潮、白雲。いずれも排水量は三百七十五トンであり、八センチ砲を二門、六センチ砲を同じく二門、水雷発射管二門を備えた三等駆逐艦である
四本煙突のこれらの駆逐艦は二十九ノットの速力が出せた。
司令の鈴木貫太郎中佐は、先頭艦朝霧に乗っていた。
彼の駆逐隊は、この日の未明、対馬の尾崎湾にあったが、和泉の無電を感じるや、すぐさま抜錨、出港した。
四隻の駆逐艦は二十ノットの速度で、高波を切り裂きながら、一斉に南下した。
午前九時に至り、はるか東の方角に敵の姿が認められた。
海上には依然として、濛気が漂い、視界は五、六海里に過ぎなかった。
鈴木の駆逐隊は、躊躇することなく八千メートルの距離にまで接近した。

片岡の艦隊は、会敵後、北東に回頭すると敵艦隊の左舷前方に位置を占めた。そして、そのままの形で敵との同航を開始した。敵艦隊とは、およそ五海里ほどの間隔を保持しながら、厳島を先頭にして鎮遠、松島、橋立の順に単縦陣を組んで進んだ。この時、すでに合流は果たしていた、第六戦隊の須磨、千代田、秋津洲がこれに続いた。
第三艦隊は。本来が後備部隊であり、その主力である第五戦隊ですら、おそるべき老朽艦をもって編成されていた。厳島、松島、橋立はいずれも日清戦争当時の主力艦であり、鎮遠にいたっては、その戦役での戦利艦である。
 東郷が、この艦隊に与えた役割は、後に百武が語った言葉を借用すれば「ロジェストウエンスキー提督を案内して東郷提督と引き合わせるというのが主な役目」ということになる。現に、彼らはその任務を着実に果しつつあった。
 二番艦の松島は常備排水量四千二百七十八トン、一本煙突、一本マストの簡潔なシルエットを有する二等巡洋艦である。僚艦の厳島、橋立と同型艦であるが、その主砲三十二センチカネー単装砲が後甲板に艦尾を向いて装備されている点で大きく異なっている。
 艦長の大佐奥宮衛は艦橋に仁王立ちとなり、双眼鏡を通じて絶えず斜後方の敵艦隊を凝視つづけていた。先頭には艦隊旗艦の「クニャージ・スワロフ」らしい巨大な艦影が浮かび上がって見える。それに続くのは「アレクサンドル三世」であろうか。
二列縦陣の左列先頭艦は「ニコライ二世」と思われる。
奥宮の脳裏をロシア艦隊の「艦型識別図」が目まぐるしく駆け巡った。
更に海面を覆う濛気の奥には、ひたひたと押し出して来る四十隻に近い大艦船群の気配が感じられる。戦艦十二隻を主力とする史上空前とも呼ぶべき強大艦隊の偉容が奥宮の眼鏡の中にあった。
双眼鏡を握る掌に汗がじっとりと滲み出た。
 第三艦隊は既に敵の12インチ砲の射程内に立ち入っている。
一旦、敵が砲門を開いてしまえば、奥宮の数隻の老朽巡洋艦にはもはや抗すべき術もない。
(兵たちの士気はどうであろうか?)
いささか心配になってきた奥宮は暫らくの間、艦橋を離れて、艦内を巡視することにした。
兵も下士官も落ち着いて、艦内のあちらこちらでくつろいでいた。
ある者は甲板に横になっていた。また、ある者たちは数人で車座になり,菓子を食っていた。なかには、鬼ごっこに興じている者達すら見受けられた。
奥宮は安堵し、そして自分の過ぎた緊張を、心中密かに恥じた。
この艦には山口一治という名の軍医が乗っていった。
筑前琵琶に堪能であることが知られている人物である。
そのことを思い出した奥宮は、山口軍医を呼び、士気高揚のためにと断り、一曲を所望した。
間もなく、前甲板には琵琶を手にして艦橋下に陣取った山口を取り囲む人垣ができた。艦長の触れに応じて集まってきた,手隙の士官や下士官兵たちである。
軍医は暫らく瞑目して呼吸を整えていたが、やがて、構えた撥を発止と打ち下ろした。
鏘々の響きを伴ってに弾じ始められたのは「川中島」である。
松島は主砲塔を艦の後部に背負っている関係上、艦首部には高く長い最上甲板が備えられている。
舳先で切り裂かれた波頭し、霧のような飛沫と化して、風に乗って高い甲板上に降り注いだ。波は相変わらず強く、大きなうねりに乗るごとに,松島の艦首はお辞儀を繰り返すように上下した。
その中で琵琶の音は、ある時はすすり泣くが如く嫋々とした余情を残し、ある時は、疲れを忘れた奔馬の駒音もかくやとばかり高らかに、一急一緩を繰り返した。
 一同が身じろぎもせず聞き入るうちに、高く低く、あるいは速く緩く自在に変化する弦の響きがやがて琵琶歌へと変わっていった。
「天文二十三年、秋の半ばの頃かとよ、上杉謙信は八千余騎を従えて、川中島に打って出ず・・・・・」
朗々たる美声であった。
曲が佳境に入り、やがて、謙信が只一騎、敵陣に駆け入る件に差し掛かると、聞き入る士官たちの中から、掛け声が飛んだ。
誰もそれを気にする者はいなかったが、細かい飛沫が絶えず一同の頭上に舞い降りてきた。
その間も琵琶は、ただ嫋々と鳴り続けた。

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ツシマ沖の海戦(その十二)
2006-07-14 Fri 05:26
午前九時ごろ、連合前艦隊の主力は対馬北端沖にあった。第一戦隊の殿艦日進の後ろに、第二艦隊が続航していた。五隻の一等巡洋艦が縦一列となり白波を蹴立てている。出雲、吾妻、常盤、八雲、磐手の順である。午前十時を過ぎた頃になって、出港時は、他の任務についていた浅間が息せき切って追いついて来て、吾妻の背後に割り込んだ。
 磐手に続いて、同じ第二艦隊の第四戦隊に所属する二等巡洋艦浪速、高千穂、明石、対馬が高波を受けて小柄な艦体を左右に揺さぶられながら、従った。
二つの艦隊には十七隻の駆逐艦と十一隻の水雷艇が付随していた。
駆逐艦は、三百トン前後、水雷艇に至っては百五十トン程度のいずれも小ぶりな船である。
それらの艦艇が大魚にまとわりつく小魚の群れのように、艦隊の後を追いかけた。
 
対馬の尾崎湾に待機していた水雷艦隊に,出港用意が命じられたのは、二十七日の払暁のことであった。
長い月日を哨戒任務に明け暮れていた水雷艇は、殆どの艇が塗料も剥げ落ちて、ひどく薄汚れて見えた。しかし、乗組員の戦意は旺盛であった。
午前五時四十分、各艇の錨が揚がった。
外洋に出ると、波は高く,風も激しかった。艇尾に掲げられた旭日旗が千切れんばかりにはためいた。
第三艦隊司令長官片岡七郎中将は、敵艦隊が西水道を通過することを懸念し、第七戦隊をその哨戒のために韓国・鴻島と対馬・尾崎湾の間の海域に残し、第五・第六戦隊を率いて南進した。水雷艇十八隻が群がるようにして、これに同航している。
当時の水雷艇は百トン未満のものも多く、当然のことながら、この日のような高波は苦手としていた。幕僚の中からは、波の静まるのを待って、後発させてはどうかという意見も出たが、片岡は敢えて彼等に出撃を命じた。実際、旧式な巡洋艦からなる彼の艦隊は、敵の侮蔑を招かないためにも、水雷艇の随伴を必要としていたのだ。
彼の水雷艇乗りたちもまた欣然として、それに応じたのである。
 外海に出ると、そこには間断なく押し寄せる大波が待ち受けていて、たちまち水雷艇群の苦闘が開始された。
 横波をもろに受けた艇は、殆んど転覆するのではないかと思われるほど傾斜して、暫らくは赤腹を曝したたままの姿勢を維持していた。殆んど横倒しになった煙突からは海水が奔入して、水雷艇の小さな汽缶の火を脅かした。
 暫らくすると、艇体はのろのろと起き上がり、次の波頭の洗礼を待ち受けることとなる。
前方から押し寄せて来た波浪は無数の泡となって艇首を飲み込んだかと思うと、すぐさま甲板を洗い流して、両舷側に消えて行く。
その度ごとに水雷艇のか細い艇身は、跳ね上げられるかと思うと、次の瞬間には押し沈められ、前後に大揺れを繰り返した。時にはスクリユーが中空に突き出し、空回することもあった。
 艇上のコンパス台に立っている艇長は、羅針盤の柱にしがみつき、辛うじて海面への転落を免れている有様である。
 ここでやや時刻を遡ると、信濃丸の第一報は、白瀬から城列島を結ぶ第四警戒線の中程辺りを哨戒中の笠置の受信機にも到達していた。巡洋艦笠置は出羽重遠中将の率いる第一艦隊第三戦隊の旗艦であり、戦隊は笠置以下、千歳、音羽、新高の四隻の巡洋艦によって編成されていた。
 笠置は信濃丸電を直ちに三笠に転電するとともに、信濃丸の第二電が告げる「二○三地点」へと航進を開始した。二○三地点とは北緯三十三度二十分、東経百二十八度二十分に予め定められていた海図上の地点である。第三戦隊は第四警戒線に沿うようにして南東に向けて進路をとったことになる。
午前九時五十五分、片岡の艦隊は南方遥かに十数条の煤煙の列を望見した。
対馬の神崎の南東七海里半の海上に達したときである。
「敵であります」
厳島の艦橋では、少佐である百武三郎参謀が双眼鏡を覗いたままで、片岡に話し掛けた。
片岡は無言で頷いた。
暫らくの間、艦橋の誰もが押し黙ったままでいた。
やがて、その沈黙を破って、「水雷艇の諸君には気の毒するが、ここらで引き揚げて貰うことにしょうか」片岡が百武参謀を振り返った。
「では、八重山に先導させて神崎方面に退避させましょう」
と、百武が直ちに応じた。
厳島の艦橋にあっても、後続する水雷艇群の苦闘振りは、つぶさに観察できた。
「あまり気の毒なので、なるべく見ないようにしていました」後になっての百武の述懐である。
厳島のマストに信号旗が掲げられた。
「艇隊ハ神崎ニ風波ヲ避ケヨ」

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ツシマ沖の海戦(その十一)
2006-07-14 Fri 00:00
「長官、全艦隊に直ちに出港を命じます」
加藤参謀長が形を正して、東郷に告げた
「よかでしょう。そん旨大本営に無電を打ってください」
東郷が低い声で静かに応じた。
加藤が一礼して退出すると、東郷は暫くの間、椅子に座ったそのまま姿勢を塑像のように崩さずにいた。
その様子は何者かに祈りを捧げているようでもあり、心気を鎮めるためにただ、瞑目しているようにも見えた。
やがて、ゆっくりと立ち上がると、後ろの壁に掛けられている軍帽に手を伸ばした。
ちょうど、その時、後任参謀の清河純一大尉は、参謀私室のドアを叩く電信員の気配で浅い眠りを破られた。
第二種軍装のまま、まだ仮眠中であった清河は、跳ね起きて電文を一瞥すると、すぐさま秋山先任参謀の部屋へと走った。
部屋には秋山の姿はなかった。
 清河は何かを思いついたように、急いで後甲板に駆け上がった。
果たして、そこには恒例となっている朝の体操に励む秋山の姿があった。
電報を目にした途端、秋山は奇妙な動作をした。
急に片足で立ち、両手を頭上にかざすと「しめた。しめた」と、踊り始めたのである。
たまたま、その近くにいた砲術長の安保清種少佐は、それを目にして思わずくすりと笑ってしまった。
「秋山さんは、小躍りされていた」と、安保少佐はその光景を、後に折に触れては語草とした
やがて、参謀たちが幕僚室に集合すると、大本営に送る電文の草稿作りが開始された。
飯田久恒少佐と清河純一大尉が額を寄せ合って鉛筆を走らせている。
暫らくして、秋山の前へ報告電文の草稿が差し出された。
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス」とある。
一瞥して「よろしい」と、秋山が頷いた。
それを受け取った飯田参謀が加藤参謀長のもとへ走ろうとしたとき、「待て」、秋山が声をかけた。
取り戻した草稿に、鉛筆をとって何か短い文章を書き加えた、
飯田が見ると、末尾に「本日天気晴朗ナレド浪高シ」と記されている。
この瞬間、単に事務的な一通の報告電文が、その後、広く人口に膾炙する国民的「文学」へと変身したのである。
無論、この時の秋山が文学を意識していたわけではない。
これには原文があり、前日、大本営の予報課長である岡田竹松技師から送られてきた気象予報に「天気晴朗ナルモ浪高カルベシ」とあったのを秋山が引用したものである。
実は、この一句には、秋山の次のような予測が秘められていたのである。
天気が晴朗であれば、索敵に齟齬は生じない。
波高が高ければ、自然と敵味方とも艦体の動揺は激しくなる。
このことは、射撃技術に一日の長がある日本海軍にとっては却って有利な条件となる。
その上、水線上に命中した砲弾が作る破孔は、艦体の揺れにつれて海面下に没し、そこから奔入する大量の海水は、敵艦の沈没を促す一大要因となり得るであろう。
ただし、この朝はまだ靄が多かった。晴朗な天気は秋山の心底からの祈りに近い願望でもあったのだ。

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ツシマ沖の海戦(その十)
2006-07-13 Thu 00:00
連合艦隊司令長官東郷大将は、第三艦隊ならびに特務艦隊両司令長官に次の訓令を与えた。
「相当ノ時期迄、当方面ニ敵影ヲ発見スル能ハザルトキハ、敵艦隊ハ北海方面ニ迂回シタルモノト推断シ、聯合艦隊ハ十二節ノ速力ニテ津軽海峡大島(渡島)ニ航ス」
渡島は津軽海峡の西口沖に位置するため、仮に敵が宗谷に来ても、それほど対応に困ることはない。
 さらに、連合艦隊司令部は、同じ内容の電文を軍令部長伊東大将に打電した。この電報が、大本営に届いたのが、二十四日午後二時十五分である。
東郷司令部の決断はほぼ固まりつつあった。津軽海峡への転位説が大勢を占めたのである。
しかし、ただ一人これに強硬に反対する人物がいた。
第二艦隊参謀長の藤井較一大佐がその人である。
この日の夕刻、藤井大佐は、上村第二艦隊司令長官の許しを得て、鎮海湾に停泊する三笠へ向った。
彼は持論である対馬海峡説を引っさげて、強引に捻じ込んだのである。
東郷司令部の幕僚たちは、それに猛烈に反発した。
遂に加藤参謀長が中に割って入り、翌日、改めて三笠において軍議を開催することとして、その場を収めた。
 翌二十五日午前、三笠の司令長官公室には、司令長官、参謀長、各司令官、連合艦隊司令部幕僚らが集合し、おそらく、これが最後となるのであろう軍議が開かれた。
昨夜来の風雨が更に強まり、三笠のような大艦上にいても、かなりの揺れが感じられた。
 加藤参謀長が、出席者一人一人の意見を確かめていったが、折衷説ともいうべき、能登半島沖待機説を唱える僅かの者を除いて、既に大勢は津軽転位説に完全に傾いていた。
藤井大佐は孤立している己が立場を改めて実感した。
 しかし、藤井はいささかも怯みはしなかった。細かい数字を書き連ねた、小さな革表紙の手帳を開いて、その数字を一々挙げながら、対馬説の根拠を縷々説明し始めた。
そして、藤井は「敵は五月二十七日前後に対馬海峡に出現するに違いない」と、きっぱりと締めくくった。
「戦いは、数字どおりにいくものではない」
「藤井さんのような一方的で融通の利かん戦略はもはや古いと言わざるをえない」
幕僚の中には激昂して、言葉が荒くなる者も見られた。
「敵艦隊速度を十ノットと推測すれば、既に対馬に現われていなければおかしい」
「敵艦隊は長途遠征のため艦底には、牡蠣などが付着して、平均速度は八ノット以下ということも考えられる。いや、それ以下と計算すべきかも知れぬ」
 藤井は、一歩も引く気配を見せなかった。
「このような議論を重ねている間に敵が津軽に出現したらどうするのか」
 遂に、司令部幕僚の一人が詰め寄った。
「数理的には、そのような事は起こり得ぬ。浦塩までの距離、燃料、水、食料等の搭載量、平均速度、長途航海による乗員の精神的・肉体的疲労等を顧慮し、計算すれば、絶対にバルチック艦隊は対馬に来る」
藤井も、激しい口調でそう応えると、今度はデーブルを叩いて、
「ロジェストウエンスキー提督は、必ず対馬に来る」と、断言した。
一座には重苦しい空気が流れた。
しかし、藤井は構わず続けた。
「台湾附近において中立国船舶による目撃情報がないのは、既に敵艦隊は南方洋上を迂回しているのではないか、との説もあるが、その海域に責任ある我が仮装巡洋艦を配置してあるのであればともかく、無責任な中立国船舶からの情報に頼り、基本方針を定めることは、小官にとっては納得し難いところである」
しかし、会議の雰囲気が、一変する気配は少しも感じられなかった。
いやむしろ、藤井が熱弁を振るえば振るうほど、彼の孤立は深まるばかりであった。
直属の上司である上村第二艦隊司令長官さえ津軽転位説に傾きかけていた。
諄諄と対馬説を説述する彼に耳をかす者は、もはや殆んどなかったのだ。
「少なくとも、本日午後三時開封の密封命令の発令は取り止めるべきである。
後二、三日は、この地に留まり、命令はその後に決せられて然るべきであろう」
上村は、半ば結論のように、そう締めくくった。
その後、一座を支配したのは重苦しい沈黙であった。
その時、会議室のドアを開けて、外套を羽織った一人の大柄な将官が入ってきた。
遅参を詫びながら、濡れそぼった外套を脱いだのは、第二艦隊第二戦隊の司令官島村速雄少将であった。
彼が座乗する磐手は三笠から最も遠い位置に停泊していたことに加えて、戦闘に備えて内火艇を固縛してあったため、端艇を使って風波を乗り切ってきたのだという。
海兵同期の気安さからか、島村が席に着くもの待たずに、加藤参謀長が声をかけた。
「本日三時をもって津軽海峡に転位する予定であるが、貴官の判断はどうか」
もちろん、その時点では、島村は、激論が交わされたその場の雰囲気を預かり知らぬわけであるから、
「それは、いささか、時期尚早である。せめて二十七日午後まで待つのが万全であろう」
と、思うところを率直簡明に応えた。
信望の厚い前連合艦隊参謀長のこの一言が、白熱した軍議の席に、一抹の冷風を吹き込ませる結果となった。それは、出席者たちに冷静さを取り戻させる切っ掛ともなった。
議事が一旦中断され、「しばらく熟考してみる」と、それまで一座の議論に耳を傾けながらも一言も発せず、黙考していた東郷司令長官が、おもむろに腰を上げ、私室に引き上げた。
程なくして、島村と藤井が呼ばれて。東郷の私室に入っていった。
十数分ほどして、二人を従えて東郷が戻ってきた。
「長官、ご裁決を」と、加藤参謀長が声をかけると、東郷は椅子から立ち上がり、小柄な身体を真っ直ぐに伸ばして、「ここで、もう一両日待つことにする」と、静かに命じた。
この瞬間、運命は連合艦隊に味方したのである。
 翌二十六日、午前零時五分、上海に特派している宮地民三郎海軍大尉より、大本営宛てに「露国義勇艦隊三隻、運送船五隻、二十五日夕刻、呉淞入港」という急電が入った。
 義勇艦隊というのは、民間の資金を活用して海軍勢力を補充するロシアの制度である。平時には貨客運送に従事しているが、一旦緩急あれば、たちまち、それらは仮装巡洋艦に転用されることとなっている。
 実際には、揚子江河口で上海に近い呉淞に接岸したのは、バルチック艦隊から分かれた仮装巡洋艦二隻、運送船六隻であり、その運送船には石炭が満載されていた。
 転電を受けた連合艦隊司令部は、バルチック艦隊の主力は未だ東シナ海にあると直ちに推測し、よって東郷司令長官は北進延期を正式に決断した。
 すでに先発していた給炭、給水船四隻に対して急遽停止命令が下され、第三戦隊には哨戒を更に厳重にするよう下令された。
 さらに軍令部宛に、通報が送られた。
「義勇艦隊呉淞ニ入港ノ情報ニ接シタル故、尚新情報ヲ得ルマデ、今夕ノ出動ヲ見合ス」

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ツシマ沖の海戦(その九)
2006-07-12 Wed 00:00
ところで、軍令部は二十三日の午前四時、連合艦隊宛てに別の一通の電報を発信している。
三井物産合名会社の傭船であるノルウェー船オスカル二世号が、五月十九日午前五時三十分頃、フィリッピンのバタン海峡附近にてロシア艦隊の臨検を受けた。その後、釈放され五月二十三日、長崎県の口ノ津に入港したというのである。さらに、同船の船長の証言として「露国士官の言によれば、台湾東方を経て対馬海峡に向け、出発すると謂えりという」と付け加えられていた。
 この電報を受けた連合艦隊司令部内は大揺れに揺れた。
ロシア士官たる者が、日本の傭船の船長にそのような機密を漏らす道理は無い。これは津軽へ回るための詐術であろう。いや、その裏の裏で、実際は対馬へ来るつもりではなかろうか。幕僚たちは、甲論乙駁、口角に泡を飛ばして議論を重ねたが、結論がでる筈もなかった。
 この時期の秋山先任参謀は、傍目にもいたいたしいほど憔悴して見えた。
もともと奇矯な行動で知られた人物ではあったが、この頃は、昼も夜もろくに眠らず、作戦に没頭していたようである。
 「ときどき用事があって秋山さんの私室に行くと、ベッドの上に横になっているが、いつも靴を履いたまま、目を大きく開いて天井を眺めている。いつ眠るのかいつ起きるのかわからなかった」と、その様子を明治三十七年四月まで彼の下で補佐参謀を務めた飯田久恒大尉が語っている。
 舷窓は何時も閉じられ、薄暗い電灯の下で、秋山は昼夜を問わず瞑想に耽っているように見えた。たまに、甲板に出ることがあっても、ポケットに一杯に詰めた好物の煎り豆をつかみ出しては齧りながら、うろうろと歩き回わりながら考え事に耽っていた。
何か思いつくと食べかけの豆を海に吐き出し、急いで作戦室に戻り、コンパスと三角定規を手にして海図に何本かの線を描き入れたりした。秋山の懊悩は、そのまま、東郷の司令部の動揺を誘った。そのことは以下の事実をもってしても明らかである。
五月二十三日の夕刻、第七戦隊の旗艦「扶桑」の甲板上では、一人の少尉候補生が手摺から身を乗り出すようにして、接舷して来た駆逐艦「雷」の艦首から水兵が差し出す竹竿の先に挟まれた封筒を受け取ろうとしていた。封筒の表には「極秘、五月二十五日午後三時開封ノコト」記されている。連合艦隊司令部が、麾下の各艦隊司令部宛に示達した密封命令であった。
その内容は、次のとおりである。
一、 今ニ至ル迄当方面ニ敵ヲ見サルヨリ敵艦隊ハ北海方面ニ迂航シタルモノト推断ス
二、 聯合艦隊ハ会敵ノ目的ヲ以テ 今ヨリ北海方面ニ移動セントス
三、 第一、第二艦隊ノ予定航路及ヒ日程航行序列及ヒ速力附図ノ如シ
四、 第三艦隊ハ別ニ与ヘタル訓令ニ基キ、予定航路上ニ於テ主隊ニ続航シ得ル如ク出発スヘシ
五、 千早、龍田、八重山ハ通信艦トシテ十四節ニテ本隊ニ先ダチ進発シ、沿路望楼ト通信ヲ連絡シ緊急ヲ要スルモノハ主隊ニ近ツキテ無線電報スヘシ
六、 各水雷母艦、仮装巡洋艦ハ各水雷艇隊ヲきょう導シ、通信艦ノ航路ニ準ジ北進シ権現崎南方ニ入泊スヘシ
七、 此行動中天候ノ異変ニ応スル主隊ノ集合地点ヲ左ノ如ク定ム 但通信艦及ヒ水雷母艦等ノモノハ適宜トス
第一日 隠岐島前
第二日以降 大島
八、 大島到着後時宜ニ依リ艦隊ハ権現崎南方ニ仮泊ス 其ノ予定錨地付図ノ如シ
九、 特務艦隊ノ他ノ諸艦船ハ別ニ与タル訓令ニ基キ行動スヘシ
十.本令ハ開被ノ日ヲ以テ其ノ発令日付トシ 出発時刻ハ更ニ信号命令ス
内容は、北進第二電のそれとほぼ同様である。
二十四日午前五時五十九分、軍令部は駐英公館駐在武官からの至急電報を受信した。
それは前日の午後二時の発信であり、「今朝、英海軍省ニ香港諜者ヨリ達セシ確報ニ依レバ、露国艦隊ハ砲塔ノ外艦長室マデ石炭ヲ補充シ、二十三日間ノ航海ニ差支ナシ。補給船ハ悉ク残シ置キ、浦塩斯徳(ウラジオストック)ニ直行スト云ウ」という内容である。
 軍令部から、その転電を受けた連合艦隊司令部では、電文中の「二十三日ノ航海」という字句に全ての者の関心が集中した。
 二十三日分の石炭を搭載して、「浦塩斯徳(ウラジオストック)ニ直行」するといえば、最短距離である朝鮮海峡通過とは考え難い。これは津軽または宗谷に向うことを示唆しているのではあるまいか。
 連合艦隊司令部の判断は、次第に北方の二海峡説に傾いていった。

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ツシマ沖の海戦(その八)
2006-07-11 Tue 00:00
 翌朝,霞ヶ関にある赤レンガ三階建ての海軍省の大臣室には、伊集院次長と、山下,財部の姿が見られた。
無論、約束どおり山本海相も同席した。
激論が開始された。
いや、その場の状況は、激論というよりも、むしろ、日頃温厚な伊集院までが、血相を変えながら海相に食ってかかったというのが、正確な描写であろう。
「敵は必ず対馬に来もす。そいは間違いなかこっじゃ」
長幼の序にうるさい薩人同士であっても、伊集院は山本とは同年であり、その点での遠慮はなかった。
「いや。戦をするのは東郷じゃ。伊集院、おはんの意見などこん際どうでんよか。そいに、おはんの仕事ば、もともと東郷を助くるこっにあるんじゃなかか」
山本も平素の持論を崩す気配は無かった。
「じゃどん。東郷が間違うちょるんなら、そいを止むるも,おいの仕事たい」
伊集院も一歩も引かなかった。
そして、「そげんなら、大臣の思案ばお伺いもす。いったいロシア艦隊はどん海峡を通ると思いもすか?」と、畳み掛けるように質した。
「おいには思案などなかと。ただ、東郷ば信ずるのみ」
山本の答えは明快であった。
しかし、と伊集院も言い募った。
「おいがもしロシア艦隊司令長官なら、而して、山本権兵衛が連合艦隊司令長官であるならば」と、言葉を区切って、椅子から身を乗り出すと、「おいは断固として対馬海峡に突入する」と叫んだ。そして、両手をテーブルに置いたままの姿勢で、五十二歳という年に似合わぬ黒々とした山本の頬鬚を睨みつけた。
その剛情ぶりには、さすがの山本も苦笑で応えるほかはなかった。
「おはんらが、そこまで言うんなら、そいでよか」
結局、三笠宛ての打電は決定したのであるが、電文の内容は控えめにして、宛名も艦隊幕僚とすること、と山本は駄目を押した。
その意を汲んで、「敵ヲシテ万一我ガ虚ニ乗ジ、朝鮮海峡ノ通過ヲ遂ゲシムルコトアラン歟。即チ、有形無形共ニ我ガ被ルベキ不利ハ甚ダ大ナルベキモノアルベキハ言ヲ俟タズ。依テ、今後我ガ艦隊ノ主力ヲ現位置ヨリ移動セラルルコトニ就テハ、特ニ慎重考慮セラレンコトヲ希望ス」という内容の返電が二十五日午後一時四十分に発信された。
発信名は大本営海軍部幕僚である。
 あくまでも、幕僚間の意見交換であるという体裁を整えたのである。
ところが、この返電は、連合艦隊司令部からの次の電報と行き違いになっているのである。
「明日正午迄当方面ニ敵影ヲ見ザレバ、当隊ハ明夕刻ヨリ北海方面に移動ス 其ノ主隊ノ航路ハ、南兄弟島ヨリ七八○地点ヲ経テ大島ニ直進ス 速力十二節 又龍田、千早、八重山ハ通信艦トシテ隠岐ノ南方ヨリ、皆月、弾埼、艫作埼望楼ノ五海里以内ヲ経過シ 通信連絡ヲ保チ 速力十四節ニテ主隊ヨリ三時間先キニ出発セシム 又水雷母艦及ヒ各水雷艇隊、仮装巡洋艦四隻、水雷沈置艦船及ヒ給炭船三隻、給水船一隻ハ、各通信艦ノ航路ニ準シ北航セシム 其ノ到達地ハ陸奥国権現崎ノ南方碇泊地トシ 天候ニ因リ函館港ニ入ラシム、当方面ニハ第七戦隊、水雷艇隊四隊、仮装巡洋艦二隻、二、三等仮装砲艦及ヒ特務艦隊ノ残部ヲ留メ置ク 当地出発ノ時刻ハ追テ電報ス」
 北進第二電ともいうべき、この電報は、同日午後三時三十七分、大本営に着信した。
二十四、二十五日両日の混迷を経て、この時期、連合艦隊司令部の腹はほぼ北進論で固まっていたと見るべきであろう。

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ツシマ沖の海戦(その七)
2006-07-10 Mon 00:00
ロシア艦隊が最後の給炭を終えて、仏印のブァン・フォン湾を出て北へ向ったのが、五月十四日のことである。この情報を東郷が入手したときは、既に十八日になっていた。
敵の艦隊速度が仮に十ノットだとすれば、もはや日本近海にその姿を見せていなければならない。
配置に就いている日本側の哨戒艦艇は実に七十三隻の多きにのぼっている。
そのいずれの艦艇からも、敵影を見たとの報告はない。
総数五十数隻という史上空前の大艦隊は、既に日本を迂回する太平洋航路を北上中なのではなかろうか。
 遂に,耐えかねた秋山は、二十三日になると大本営海軍部に宛てて、
「相当ナ時期ニ至ルマデモ敵艦ヲ見ザリシトキハ、艦隊ハ随時移動ヲ図ラムトス」
と、打電した。
ただし、加藤参謀長の了解を得ただけで、東郷の「諾」は受けていない。
電文を開いて,大本営海軍部は驚愕した。大本営海軍部とは、軍令部の戦時編成である。当時の軍令部の中心人物は,作戦班長の山下源太郎大佐であった。
 山下大佐を始め,軍令部の判断は「敵は対馬に来る」で一致しており、この時期においても特に動揺は見当たらなかった。
山下は大尉の頃、軍艦「武蔵」の航海長を勤めたことがある。当時、武蔵は千島から北海道にかけての気象調査に従事していた。五月から六月にかけて、この海域は霧の季節を迎える。津軽であれ宗谷であれ、霧に包まれたあの狭い海峡を、大艦隊を率いて通過するのはきわめて困難である。山下は若い頃に体験的にそのことを学んでいた。
「自分がロシア艦隊の司令長官なら,必ず航海上安全な対馬海峡を選ぶであろう」
と、山下は主張し、自然とその予測が軍令部の統一見解となっていた。
山下は、班員の財部彪大佐を自室に呼んで「鎮海湾で待機するように命令したい」のだが、と相談を持ちかけた。財部もこれに賛成したが、「しかし、命令はいかにも拙い。むしろ助言とするべきであろう」と、付け加えた。
当時の海軍の風潮としては、前線部隊の行動にいちいち容喙することなどは、大本営のなすべはことではないとされていた。実施部隊の手足を縛り上げてしまえば、戦はできない、というのがその理由である。
「しかし、今回だけは違う」
非常事態であればこそ,口出しもまた己むを得ざる仕儀である、と山下は言い張り、財部もそれに同意したのである。
 直ちに文案が作成された。
両人はそれを上司である軍令部次長伊集院五郎中将に見せ、その承諾をとったる
さらに、財部はその書面を携えて,高輪にある部長の伊東祐亨大将の私邸に自転車で走った。当時の、東京の都市交通事情にあっては、自転車が最も効率的な乗り物であったのだ。
伊東は日清戦争当時の連合艦隊司令長官であり、黄海海戦で勇名を馳せた提督であったが、その性格は温厚で手堅い風格で知られていた。その出身地から想像されるような典型的な薩摩っぽではなかった。この海軍の長老は、郷党意識の盛んな「薩の海軍」の中にあって,長年にわたり、よき調整者の役割を果たしつづけてきた。
その伊東にも否やはなかった。
ただ,急いで辞そうとした財部を呼び止め、「山本どんにだけは声ばかけておいた方が良か」とだけ告げた。
「山本どん」とは海軍大臣の山本権兵衛大将のことである。
いうまでもなく、海軍大臣は軍政面の総帥であり、軍令部に属する財部らの直接の上司ではない。しかし、山本はこの国が保有した最初の近代海軍の創設者とでもいうべき人物であり、東郷の人柄を見込んで、舞鶴鎮守府司令長官という閑職から引き抜いて、常備艦隊司令長官に復職させ、対露戦の要に据えたのも彼の仕事であった。いわば、命令系統を超えた特別な存在であるともいえた。
「権兵衛大臣の同意だけはとっておけよ」というのは、単に伊東の気配りだけから出た言葉ではなかった。
 財部は再び走った。
海相私邸は芝の高輪にある。
時刻は既に午後八時に近く、新緑の薫りに包まれた、高輪の夜の坂道を財部は自転車を漕ぎ上げて行った。五月とはいえ梅雨時ともおもえる、変に蒸し暑い夜であった。
 軍帽の中から湧き出してくる汗が,粒となって頬を伝い下りた。
応接間で暫く待たされた後で、山本は着物姿で現われた。
来客の時は何時でもそうするはずの袴は着けていない。
実をいえば、財部は山本の女婿であった。大尉の時代に山本の長女稲子を娶っている。
山本のくだけた格好は、その所為であった。
財部がことの仔細を説明すると、山本の反応は財部の予想通りであった。
「打電は一切罷りならん」と、にべもなかった。
作戦に関してはすべて東郷に任せてある。後方から一々口出しするようであれば、戦にならぬ。これがその理由であった。
現場での駆け引きは、現場に任せる。それが山本のかねてからの持論である。
しかし、今夜の財部にとっては、その程度の反撃に怯むわけにはいかなかった。
「お言葉ではありますが、閣下。このような非常の時には、かえって後方に居るほうがよくものが見えるのではありますまいか。それに艦隊の連中は津軽海峡に機雷が敷設してあることを知りません」と、懸命に食い下がった。
確かに、同海峡一体には既に連係機雷がばらまかれている。
連係機雷というのは、二個の機雷を鋼索で繋ぎ、敵艦がこの索をひっかけると機雷が引き摺られて舷側に衝突して爆発するように工夫されたものである。当時の日本海軍の秘密兵器とされていた。
そのような機雷原と化した津軽海峡を、ロシア艦隊が強行突破すれば、触雷により相当の損害を被り、自然と艦隊速度もそれだけ衰えるであろう。そうすれば、朝鮮海峡に張り付いている連合艦隊が急遽駆けつけるだけの時間的余裕も生じるのではあるまいか、と、財部は言いたかったのである。
 だが、山本は特にその事には触れず、「将外ニアリテハ君命モ奉ゼザルアリ」という古い言葉を引用して、現場に任せたからには、後方からの掣肘はもはや無用であると言い
「非常の場合であるからこそ、容喙は無用じゃ。おはん、とにかく今夜は帰れ。話は明日もう一度役所で聞くことにしもんそ」と、その後は、取り付く島もなかった。
そして、山本の切れ長な大きな眼が,財部を鋭く睨んだ。
 それに対する者の心を萎えさせると世間で評判の「虎の目」が暗青色の光を帯びたのである。
 財部にとっても,岳父のその表情は苦手であった。ついに、それ以上は押せず、その夜は追い返されてしまった。

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ツシマ沖の海戦(その六)
2006-07-09 Sun 13:27
ここで、時刻を少しばかり遡ることにする。
 信濃丸の発した「敵艦見ユ」の第一報は、折から対馬に停泊中の第三艦隊の旗艦である厳島を経由して、鎮海湾に投錨中の三笠に転送された。午前五時五分のことである。
 信濃丸に積まれていた三六式無線電信機は、当時としては世界最高水準の性能を有する船舶用無線機という評価を受けていた。その電波の到達距離はおよそ八十海里である。
 しかし、対馬の山襞が障害となり、その第一報は三笠によって、直接受信されることはなかったのだ。
 三笠の無線電信室は上甲板の後部に設置されていた。
電信員が着信したばかりの暗号文を解読し終わると、それを入れた封筒を片手にした当直の無線助手が、司令部へと駆け出して行った。もっとも、暗号文とはいっても、ごく簡単なものであった。予め定められていたのは、タの字を続けて七文字打てば、それが敵発見を意味することになっていた。三笠の受信機は繰り返し、この「タ連送」を鳴らしつづけた。
午前五時過ぎといえば、既に「総員起こし」は終わっている。甲板上では何時ものように海軍体操に励む兵員の姿が見られた。無線助手加瀬順一郎は、その傍らを「そら来たぞ」と叫びながら走り抜けた。それを耳にした兵員たちの体操の手が一斉に止まった。
加瀬が駆け込んだのは、中間甲板の艦尾に近い場所にある参謀長公室である。
この時期、連合艦隊の参謀長の座にあったのは、海兵七期出身の少将加藤友三郎であった。
その時、加藤は少し前屈みの姿勢で椅子にかけ、起床前から続いている猛烈な胃痛に耐えていた。持病である神経性胃炎の発作が、血の気の失せた加藤の顔面から全ての表情を奪い去っていた。
加瀬が差し出した解読文を一読したときも、ただ小さく頷いただけであった。通信兵が立ち去ると、加藤は静かに立ち上がり、艦尾にある長官私室へと足を運んだ。
長官私室の手前には、平時であれば幕僚たちとの会議などに用いられる長官公室がある。
艦幅いっぱいを占める広さの、この部屋には水雷艇撃退用の四十口径七・六糎補助砲が備え付けられ、戦時の現在では既に一個の砲郭と化していだ。加藤はその突き出した砲尾を擦り抜けるようにして通り過ぎ、東郷のドアを叩いた。
 東郷は、テーブルに拡げた何かの書面に目を通していた。加藤が手渡した解読文を一瞥すると、すぐ面を上げ、無言のまま参謀長を見つめた。
そして、ややあって「来もしたか」と、低く一言呟いた。何時どおりの寡黙な東郷の表情であった。
しかし、加藤はその瞬間、東郷の品のよい目許に明らかな喜色の影が過ぎったのを見逃すことはなかった。
(長官も同じ思いをされているのだ)
加藤には、いかなるときにも冷静さを失うことのない人物であるという評判があった。
今も、表情こそ普段のままであったが、その胸底深くには、極度の緊張感から解き放たれた安堵の感情を激しく味わいつつあったのだ。
 加藤は、この数日間というものは、酷い不眠と胃痛に悩まされ続けてきた。
ロシア艦隊の来航は、いうまでもなく日本中の最大の関心事であった。
特に人々を悩ませたのは、この遠征艦隊が選択すべき日本海への侵入ルートについてであった。
 太平洋側から、日本海に面するロシアの極東要港であるウラジオストクを目指すには、三つの道しかなかった。
 大きく北に迂回して樺太と北海道を隔てる宗谷海峡を通るか、北海道と本州の間の津軽海峡を抜けるのか、それとも南に下って九州と朝鮮半島との間の海面を一直線に突っ走るかである。
この季節の宗谷海峡は霧が多かった。その上、距離的にもはなはだ不利である。消去法で行けば、真っ先に外されるべき選択肢である。
 九州と朝鮮との間の海峡にしても、朝鮮海峡は余りにも陸地に近すぎるため、来るなら対馬海峡の方であろうと考えられていた。それなら距離的に見ても最も有利である。
 対馬か津軽か、そのいずれにも決断が下し難い。日本海軍はいずれの海域で待ち伏せすればよいのか。この命題に相対して加藤を始めとして、三笠の幕僚たちは悩み抜いてきた。
 先任参謀の秋山真之中佐もその一人であった。
後に日本海軍きっての戦術家と称されることとなる、この伊予生まれの少壮軍人に背負わされた重い荷物は、常人のよく耐え得るものではなかった。
 それは、五十隻におよぶ敵艦隊を全滅させ、その一隻たりとも彼らが目指すウラジオストック軍港へ逃げこまさない、という常識ではほぼ不可能とも思える作戦計画の立案であった。
敵一艦といえども撃ち漏らすことは許されぬ、という過酷な命題に対して、この独創的な頭脳の持主が編み出したのは「七段構え」の戦法であった。
それは、会敵予想地点である済州島附近からウラジオストクまでの海域を大きく七つに区分して、各区で別々の戦法を使用して、敵艦隊の撃滅を図るというものである。
第一段としては、主力同士の決戦前夜に駆逐隊、水雷隊の全力を挙げて敵主力を奇襲し、極力敵の戦力の削減を図り、第二段に入ると早朝より日没まで艦隊の全力を用いて敵艦隊と正攻法で対決する。そして、二昼夜に及ぶ各種の圧迫の末、最後の第七段として、残敵を予め敷設しておいたウラジオストック港口の機雷原に追い込み、これを全滅させるという華麗にして精緻な戦術であった。
秋山の優れた頭脳が生み出したこの精緻な作戦図面は、対馬沖をそのキャンバスにして描かれた作品である。敵艦隊が対馬沖に出現し、そして天候にさえ恵まれれば、少なくとも荒天や濃霧が索敵の邪魔さえしなければ、敵の撃滅は必至である。しかし、敵艦隊が津軽に回るとなると、話は別である。
津軽の初夏は霧の多い季節である。
折角の「七段構え」も北国の霧の中に、敵を見失えば、無用の長物と化してしまう。
しかも、敵はわが方とほぼ同勢力である。そのため連合艦隊を二分して、その各々を二海峡に張り付かせるという二正面作戦は採用できない。
「いっそ。能登半島あたりで待つか」
五月も二十日を過ぎると、秋山の焦燥は募った。

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労災保険制度(その十五)
2006-07-08 Sat 08:49
二次健康診断等給付
二次健康診断等給付は、労働安全衛生法に基づく定期健康診断等のうち、直近のもの(一次健康診断)において、 業務上の事由による脳血管疾患および心臓疾患の発生に関連する血圧の測定等の項目 について異常の所見が認められる場合に、労働者の請求に基づき、二次健康診断等給付として二次健康診断および特定保健指導が、給付されます。
二次健康診断等給付を受けるためには
二次健康診断等給付は、一次健康診断の結果が、 次のとおりでなければりません。
1. 血圧の測定
2. 血中脂質検査
3. 血糖検査
4. BMI(肥満度)の測定
のすべての検査について異常の所見があると診断された場合に受けることができます。ただし、労災保険制度に特別加入されている人及びすでに脳血管疾患又は心臓疾患の症状を有している人は対象外とされます。
二次健康診断等給付の内容は
二次健康診断等給付では、二次健康診断と特定保健指導が行われます。
二次健康診断
二次健康診断として、以下の検査を受診者の負担なくして受けることができます。
空腹時血中脂質検査
空腹時において血液を採取し、食事による影響を排除した血清総コレステロール、高比重リポ蛋白コレ ステロール
(HDLコレステロール)及び血清トリグリセライド(中性脂肪)の量により血中脂質を測定する検査。
空腹時の血中グルコース量の検査(空腹時血糖値検査)
空腹時において血液を採取し、食事による影響を排除した血中グル コースの量(血糖値)を測定する検査。
ヘモグロビンA1C検査(一次健康診断において行なった場合を除きます。)
食事による一次的な影響が少な く、過去1~2ヶ月における平均的な血糖値を表すとされているヘモグロビンAICの割合を
測定する検査。
負荷心電図検査又は胸部超音波検査(心エコー検査)
負荷心電図検査
 階段を上り下りしたり、ベルトコンベアの上を歩くなどの運動により心臓に負荷を加えた状態で、心電図 を計測する検査。
胸部超音波検査(心エコー検査)
 超音波探触子を胸壁に当て、心臓の状態を調べる検査。
頚部超音波検査(頚部エコー検査)
超音波探触子を頚部に当て、脳に入る動脈の状態を調べる検査。
微量アルブミン尿検査(一次健康診断において尿蛋白検査の所見が疑陽性(±)又は弱陽性(+)である方に限ります。)
尿中のアルブミン(血清中に含まれるタンパク質の一種)の量を精密に測定する検査。
特定保健指導
特定保健指導として、二次健康診断1回に月1回、以下の指導を医師から受診者の負担なく受けることができます。(二次健康診断の結果、脳血管疾患又は心臓疾患の症状を有していると診断された場合は受けることができません。)
栄養指導
適切なカロリーの摂取等、食生活上の指針を示す指導。
運動指導
必要な運動の指針を示す指導。
生活指導
飲酒、喫煙、睡眠等の生活習慣に関する指導。
二次健康診断等給付
二次健康診断等給付は、労災病院及び都道府県労働局長が指定する病院もしくは診療所(以下「健診給付病院等」といいます。)で受 けることができます。

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ツシマ沖の海戦(その五)
2006-07-07 Fri 00:00
鎮海湾には、この時、海戦に参加する予定の無い特務艦隊の主力十七隻が停泊していたが、将兵たちは甲板に群がって、三笠に向けて帽を振った。
午前六時二十四分、仮装巡洋艦台中丸の檣頭に歓送信号旗が揚がった。
「絶大ノ成功ヲ祈ル」
特務艦隊司令長官小倉鋲一郎少将からのメッセージである。
艦隊の各艦が加徳水道を離れようとするとき、三笠はまだ鎮海湾の中にいた。
が、間もなくゆっくりと動き始め、やがて増速すると、午前六時三十四分、加徳水道に入り、十八ノットの快速で、先行していた第一艦隊・第二艦隊をするすると追い越し、たちまち先頭の位置に出た。
三笠の艦首喫水線の真下から突き出した衝角から跳ね上げられた水しぶきが艦橋にまで達した。
三笠の艦尾に並んだ軍楽隊が奏でる勇壮な軍艦行進曲のメロディーが、三角波の立つ海面を南西の風に乗って流れていった。
東郷は単縦陣に艦隊を纏めると、速力十五ノットを命じた。
午前六時三十六分、三笠は「敵艦隊十五隻以上目撃ス」という信濃丸電を受信した。
前電と同じく第三艦隊旗艦厳島経由の中継電である。
午前七時十分、加徳水道を抜けた三笠は、対馬北端韓崎の北東中カイリの地点、連合艦隊の海図でいうC1地点を目指して航進を開始した。
三笠は、第三艦隊に無電でその方向を伝えると同時に、後続の各艦にも旗信号を揚げて指令した
「旗艦ノ跡路ヲ進メ」

第一艦隊第一戦隊の戦艦群は、三笠、敷島、冨士、朝日、春日、日進の順序で単縦陣を組んで波を切った。三笠の側には小さな通報艦龍田の姿があった。
もっとも戦艦群といっても四番艦の春日、殿艦の日進は、それぞれ排水量七千七百トンの装甲巡洋艦に過ぎない。
前年の五月、旅順港封鎖作戦中に触雷して沈没した二隻の戦艦初瀬、八島の代役として、この戦隊に急遽編入されているのである。
外洋に出ると西南西の風が激しく、三笠の艦橋の風力計は六を記録した。
波は高く、濛気が海上に漂い、視界は九千メートルほどであった。
排水量僅かに八百六十八トンにすぎない通報艦の龍田は、荒波に翻弄されながらも子犬が親を追うように、三笠の後を懸命に追いかけた。
龍田は辛い航海を余儀なくされた。
艦の動揺は激しく、時には傾斜が三十度に達した。
殊に風上に向かう折には、波浪が低い乾舷を乗り越えて甲板に躍り上がり、その飛沫が艦橋を激しく叩いた。
そのため、測距儀や備え付けの望遠鏡などが水浸しとなった。
三笠ほどの大艦でも、甲板に立つとかなりの横揺れが感じられた。
ロシア艦隊に接触中の和泉から、しきりに敵状に関する報告が入ってくる。
その一つに「煙突は全て黄色」というのがあった。
艦体の方は黒色に塗装されているという。
日本の軍艦は、全て海の色に紛れる濃緑色に塗られている。
ロシア艦隊の全艦艇が、これ見よがしに黄色の煙突を林立させながら航進して来るというのであれば、戦闘時の敵味方の識別に苦労は伴わない。
三笠の司令部はあげて、この知らせを歓迎した。

戦艦敷島の甲板上では、石炭投棄作業がまだ続けられていた。
なにしろ四百トンもの大量の石炭を海面に投下しなければならないのである。
艦長の寺垣猪三大佐は、石炭の過積みにより自艦の喫水線が〇・六メートルも下がっていることを酷く気にしていた。
彼の判断により、通常であれば、粉塵で視力を痛めないために、ボイラー室の作業を免除されているはずの砲員までが、この作業に動員された。
彼らは防塵眼鏡を着用し、制服を炭塵まみれにしながら、投棄作業に熱中した。

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ツシマ沖の海戦(その四)
2006-07-06 Thu 00:00
この時期、連合艦隊は三個の艦隊により編成されていた。
すなわち、連合艦隊司令長官である大将東郷平八郎が直卒する第一艦隊、中将上村彦之丞を司令長官とする第二艦隊および片岡七郎中将が率いる第三艦隊であった。
その他には、仮装巡洋艦等で編成された付属特務艦隊と呼ばれるものがあった。
台中丸を旗艦とし、汽船十四隻、仮装巡洋艦十隻で編成され、哨戒任務に専念することになっていた。
信濃丸はその中の一隻である。
第一艦隊は東郷の座乗する三笠以下四隻との戦艦と春日、日進の二隻の装甲巡洋艦からなる第一戦隊をその主力とし、その時、朝鮮南東岸にある加徳水道に停泊していた。
ただ、旗艦三笠のみは陸上との連絡に便利な、水道奥に位置する鎮海湾にあった。
出雲を旗艦とする装甲巡洋艦六隻で編成されている第二艦隊の主力もこの水道を泊地としていた。
片岡中将が司令長官を勤める第三艦隊は、対馬の竹敷要港の附近にあり、和泉はこの艦隊の第六戦隊に所属し、僚艦である須磨、秋津州、千代田らと共に哨戒任務についていたのである。
日本における無線電信機の開発の歴史は意外に早く、マルコニーの無線電信の発明から僅か二年後の明治三十年に逓信省電気試験所の技師松代松之助が、文献に頼り無線電信機を製作し、築地海岸においてその実験に成功している。明治三十三年海軍省に移った松代は、仙台第二高等学校から招聘された木村駿吉教授と共に、翌三十四年、三四式無線電信機の開発に成功した。
木村は更に、これに改良を重ねて明治三十六年に至り、遂に三六式無線電信機を完成した。
同電信機は、その通信距離が二百海里に達し、新兵器としての実用化の目途がついたため、日露開戦直前に海軍艦船全てに備え付けられることとなった。

「予定順序に従い各隊出港」
三笠のマストに数枚の国際信号旗が揚がった。
旗旈信号である。
それに対して各艦が応旗で答える。
「各艦、了解」
独特の抑揚で「リョォーカイィー」と延ばす、信号長のよく透る声が旗甲板から降ってきた。
三笠の信号旗が引き降ろされた。信号の発令である。
艦橋には、戦傷も癒えて、戦務に復帰した艦長伊地知彦次郎大佐の張り切った姿があった。
「出港用意。錨を揚げ」伊地知が前甲板に向かって怒鳴った。
揚錨機(キャプスタン)がガタガタと喧しい音を発て、赤く錆びた巨大な錨鎖が水滴を滴らせながら錨鎖孔を通って巻き上げられてくる。
錨甲板で待ち構える水兵たちが、ホースで水をかけて錨鎖にこびりついた海底の泥や砂を洗い落として行く。
ハンマーを片手にして各部をカンカンと叩いて異常を確かめている兵もいる。
巻き上げられた鎖は大きな音を立てて艦底の錨鎖庫へ落されて行く。
やがて錨鎖が縮み、錨が立上がって海底から離れると、
「両舷前進微速」と、艦橋の伝声管に号令が吹き込まれた。
三笠の主缶二十四基の蒸気は既に上がっている。
排水量一万五千余トンの三笠の巨体がゆっくりと動き始めた。
午前六時七分、航進を開始した三笠の電信機が鳴った。
第三艦隊旗艦の厳島から、信濃丸電の欠落部分を知らせてきたのである。
「敵艦隊 二○三地点 午前五時」
午前六時二十分、艦長伊地知彦次郎大佐は「合戦準備」を命じた。
この時期、各艦艇上では奇妙な号令が出されていた。
「総員、甲板上の石炭投棄」
三笠をはじめ、その他の艦艇の甲板上には所狭しばかり石炭袋が積まれていた。
それを手隙の者は総出で海中に投げ捨てよ、という命令である。
敵の針路は既に、対馬東水道と確定している。
敵艦隊が津軽か宗谷海峡へ来る時のことも想定して、積載されていた予備の石炭は不要となった。
いや、むしろ有害な存在と化したというべきである。一旦、戦闘が開始されれば、兵員の行動の邪魔になるだけではなく、被弾した際に引火する危険がある。
三笠の甲板でも皆が狂ったように投棄作業に熱中した。
炭塵がもうもうと周囲に立ち篭め、水兵服の白はみるみる薄汚れていった。
砲員は特にこの作業を免除され、目を保護するために防塵眼鏡の着用を命じられた。
一時間ほどたつと英国から輸入された高価な無煙炭の三トンあまりの袋は、三笠の甲板から拭ったように姿を消し去ってしまった。
すぐさま、炭塵で汚れた艦内の清掃が行われた。
甲板は石鹸を使ってきれいに洗い流され、その後で消毒薬が入念に噴霧された。
更に念のいったことに、兵員は全員が入浴した。
入浴後は下着に至る迄新品の戦闘服に着替えた。
全て外傷を受けた際の化膿止めのための措置である。
「砲側に砂を撒け」と、いう副長命令も出た。
戦闘中に流れ出してくる血潮に砲員が足をとられることを防ぐのが、その理由である。
彼等は履きなれた靴を脱ぎ、支給された足袋に履き替えた。
これもまた、血溜りや海水で濡れた甲板で戦う際の足元用心のための措置である。
兵員は皆、胸に襷がけにした木札をつけていた。その札には持場と本籍、氏名が墨書され、後の認識票の役割を果すことになっていた。
こうしておけば、たとえ敵弾で五体が散乱しても、それが誰のものであるか判明するであろう。


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ツシマ沖の海戦(その三)
2006-07-05 Wed 00:00
五月十四日、戦艦アリョールの艦上で、午前五時の時鐘が鳴り響いた。
続いて上甲板で、喇叭手が総員起こしのメロディーを吹き鳴らした。
とたんに、あちこちの甲板では衛兵伍長や先任下士官の怒鳴り声が沸き起こり、その合間には号笛の鋭い音色が、喧騒に拍車をかけるようにピリピリと鳴り渡った。
「総員起こし。釣床あげ」
「ぼやぼやするな。敏速にやれ」
開戦前夜の不安な一夜を、たいていの水兵たちは甲板上でごろ寝をして過ごした。
彼等は、着のみ着のままの姿で跳ね起きると、我勝ちに共同洗面所へ駆け込んだ。
何十もの水栓が並ぶ細長い洗い場で押し合いながら、冷たい海水をくみ出しては顔を洗った。
朝食は、各自がパンと三フントのバターを受け取って始まった。
お茶を飲みながらゆっくりとした食事を済ますと、平日どおりに掃除が始まった。兵員たちは副直将校と当直下士官が目を光らせる中で、甲板を洗ったり金具を磨いたり、部屋の埃を拭いたりした。

午前五時過ぎ、戦艦アリョールの見張員が、両手で構えた望遠鏡の鏡内に艦隊の方へ近づいて来る一隻の汽船の姿を視認した。
その汽船は四哩の距離にまで接近したと思うと、突然右舷の方角に変針し、たちまち朝霞の中に姿をくらませていった。
マストの旗は確認できなかったが、この怪しげな船は、日本の哨戒船だと思われた。
ロジェストウエンスキー提督は、直ちに彼の快速巡洋艦を動員して、その怪船を追跡させるべきであったろう。
だが、彼はそれを怠った。
ロ提督は艦橋に据えられた愛用の肘掛け椅子に相変わらず腰を腰をおろしたままであった。
外套を脱ぎ捨てた肉付きのよい広い両肩には、組合せ文字と二羽の黒い鷲がデザインされた海軍中将の肩章が、早朝の陽光を受けて黄金色に輝いていた。
意思の強さを物語るがっしりとした彼の下顎は、白髪混じりの黒く短い顎鬚で縁取られていた。
厳つい眉毛の下のじっと動かぬ眼差しには、時折、対面する者の心底を見透かすような鋭い光が宿った。
提督が、傍らに佇立するイグナチュウス大佐を顧みて、「どうやらわれわれは発見されたらしい」と、言ったのは午前五時をかなり過ぎた時期のことであった。
この頃から、それまで比較的のんびりした調子で定期交信らしきものを取り交わしていた日本艦隊の発する通信が俄かに慌しくなり、複雑な暗号電波が夥しい数で、夜明けの海上に乱れ飛び始めていたのである。ロシアの司令長官の発言は、この事実を踏まえてのものであった。

六時ごろ、再び一隻の船影が、水平線に浮かびあがった。
その船は二本煙突から盛んに黒煙をたなびかせながら、ロシア艦隊に近寄ってきた。
「あれはイズミだ」
艦隊との距離が五哩まで縮まったときに、双眼鏡構えた見張員が叫んだ。
まさしく、それは敵の軽巡和泉であった。
それからのイズミの行動は不敵であった。
まるで、ロシア艦隊をからかう様に、平行の針路をとって小一時間ばかり進んだ。
ロシア艦の受信機には、イズミの発する暗号電が慌しく流れ込んだ。
七時十分頃、戦艦アリョールは、右舷の砲と後部一二インチ砲の照準をイズミに合わせた。ロジェストウエンスキー提督からの信号に従ったのである。
照準測定器の数字は五五ケーブル(五マイル半)を示している。
しかし、それに続くべき射撃命令は遂に下されることはなかった。
イズミは朝霧の中を見え隠れしながら、ロシア艦隊を尾行し続けた。
しかも、絶え間なく無電で本隊との交信を繰り返している。
我が艦隊の編成、針路、速力等を朝鮮海峡で待ち伏せしているに違いない東郷の司令部宛てに、逐一報告しているのであろう。アリョールの乗組員たちは苛立った。
アリヨールの艦上でも、手を拱いてイズミを見逃しているとしか思えないロジェストウエンスキー提督の態度を疑問視する声が一斉に沸き起こった。
 味方の高速巡洋艦の二・三隻で追跡させれば、旧式低速なイズミなどは容易く撃沈できるはずである。何故、我等の提督は、そのような自明ともいうべき命令を下さいのであろうか。幕僚組の士官たちは、それでもやや節度保った口調で首を傾げたが、下級水兵に至っては、上官の耳もはばかることなく大声で提督の采配振りを罵った。
ロシアの旧暦十四日に当たる、この日は、ニコライ二世の戴冠式の記念日である。
午前九時、ロジェストウエンスキー提督は、「皇帝陛下の御即位の記念日を祝し、艦隊乗組員一同、第一公式の制服を着用し、各艦艇毎に祈祷せよ」と、信号を発した。
提督自身は相変わらず、艦橋に置かれた肱掛椅子に腰を下ろしたままであったが、右手で盛んに首筋を揉みほぐしていた。
不自然な姿勢を強いられる肱掛椅子での仮眠が祟ったものと見える。
やがて、やや気分も回復した風情で、傍らに控えているクロング大佐に、「計画どおりに正午に東水道の中央に達したならば、針路を北二十三度東に変更する旨を予め艦隊に伝えておいてくれ給え」と、指示した。
 その後は、ウラジォストクに直行するばかりである。
提督は自信に満ちた口調で、説明を始めた。
「今や、わが艦隊のウラジオストク軍港入港の可能性は増大した。」
その判断の根拠は、かくの如きである。
 敵は、我々が大西洋に出て以来、常に我所在を把握していたはずである。我艦隊は、マダガスカル島、マラッカ海峡、カムラン湾、台湾附近、琉球列島など格好の邀撃場所を通過して来ているにも拘わらずそのいずれの地点においても敵の攻撃はなかった。特に、前夜は水雷艇の襲撃には絶好の機会であった。しかし、その来襲は見られなかった。
本日に至っては、敵は我艦隊を発見後二時間に及んでも未だに、水雷艇の姿は見えない。
水雷艇ならば夜間の襲撃が可能であり、濃霧中の攻撃も可能なはずである。
では、何故に攻撃に及ばないのであろうか。それは、敵水雷艇に攻撃能力が欠如しているのか、それとも日本艦隊には攻撃意思が存在しないかのいずれかであろう。
提督は、ここで言葉を区切って、艦橋の窓越しに灰色の霧に覆われた極東の海原に視線を向けた。西南の風が強く、東支那海の黄ばんだ海面は大きな波涛でかき回されていた。艦首が切り裂く波浪が、風に押されて細かい霧状の飛沫と化して艦橋にまで舞い上がってきた。
どんよりとした曇り空から、時折、橙色をした大きな太陽が顔をのぞかせた。
それは輪郭がぼやけてまるで浮腫んでいるように見えた。
クロング大佐も、じっと泡立つ海面を見詰めていた。
艦橋の中を重苦しい沈黙が支配した。彼は提督ほどに楽観はしていなかった。
艦橋に詰めている誰もが間もなく艦隊の頭上に迫り来るであろう、過酷な筈の運命に思いを馳せていた。
艦底から上がってくる機関の響きが、微かに彼等の足元の床を震わせていた。

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ツシマ沖の海戦(その二)
2006-07-04 Tue 00:00
ロシア暦でいえば五月十二日朝、ロジェストウエンスキー提督の率いるロシア東征艦隊は、灰色の雨雲が低く垂れ込める東シナ海にあった。
海上はかなりの風が吹き抜け、冷たい小雨が降っていた。
六点鐘を聞いたばかりのアリョールの上甲板には多くの士官や兵員の姿が見受けられた。
彼等の視線は、艦隊を離れて上海に向う六隻の運送船の群に釘付けになっていた。
マストに別れの信号旗を掲げ、二隻の仮装巡洋艦に先導されながら、次第に遠ざかって行く船団に向けて、取り残される者たちの羨望の眼差しが集中していたのだ。
前甲板に鈴なりになった水兵たちが、
「たった四十マイルも走れば局外中立港へ行けるのか」
「上海へ行って、日本人と戦わずに済むのなら、俺は腕の一本や二本とられても惜しくはないぞ」
絶望的な戦いに駆り出されようとしている者たちの鬱屈した怒りを口々にぶちまけた。
一方、艦橋に居る士官たちの間では、困惑の渦が広がっていた。
「ここで足手まといの運送船を追い払ってしまうということは、我等の提督はいよいよ対馬の針路を選択されたのだな」
「なんということだ。彼は宗谷海峡か津軽海峡を選ぶに相違ないと思っていたのだが」
ロシア艦隊の目的がウラジオストクに潜入することにあるのは当然であるが、そのためには、先ず日本海を横切らなければならない。
その日本海に入り込むためには三つのルートがある。
対馬によって真中が仕切られている朝鮮海峡、日本本州と北海道の間の津軽海峡、日本領の北海道とロシアが領有する樺太島の間に横たわる宗谷海峡の三つの水道である。
これまでも、士官たちの間では通過水道についての議論は盛んに戦わされていた。
朝鮮海峡を選ぶ者は殆んどいなかった。近辺には日本海軍の根拠地があり、そのため水雷艇等の小艦艇すらも戦闘に参加できる。したがって、ロシア艦隊は、日本海軍の全兵力を相手に戦わざるを得なくなる。それに加えて、このコースをとると、ウラジオストクまでの距離が最も大きくなるという弊害が生じる。
宗谷海峡の通過が最も有利な選択であろう、というのが大方の意見であった。
この海峡は幅は朝鮮東海峡のそれとほぼ同じであるが、距離は遥かに短い。
この時期における宗谷海峡は霧のかかることで知られているが、それも、あながち通過の障害とばかり考えることもないだろう。海峡に立ちこめる濃霧は、敵の目をくらますための天恵の隠れ蓑ともなり得るのだ。
「それに敵の哨戒艦艇に発見されたとしても、知らせを受けたトーゴー艦隊がその快速を利用して南日本海から駆けつけて来たころには、我が艦隊はウラジオストク港近くまで行っているだろう。そこまで辿り着けば、壁に守られた我が家にいるようなものだ。司令長官は我が艦隊のために宗谷海峡を選ぶであろうことを信じて疑わない」
アリョール乗組みのある大尉は、自信ありげにそう断言した。
しかし、午前九時、ロシア艦隊は北七十度東のコースに乗った。
それは疑いもなく対馬を目指す針路であった。
このニュースは、艦隊の乗組員を驚愕させた。
兵員たちはロジェストウエンスキーを口々に罵った。
「間抜け。あの野郎、俺たちを何処へ連れて行く気なんだ」
「おい、あの気狂い提督は俺たちを殺そうとしているんだぞ」
彼らの狂騒をよそに、正午過ぎ、雨は上がったが、海面にはしめっぽい霧が依然として貼りついていた。
艦隊は、二列の縦陣を組んで航行していた。
右列の縦陣は、第一、第二戦艦戦隊からなり、左側は第三戦艦戦隊と巡洋戦隊とで編成されていた。
二列の縦陣に挟まれるようにして小さな水雷艇が二隻進んでいた。
巡洋戦隊の右舷には、寄り添うように五隻の駆逐艦の姿が見られた。
その後方には四隻の運送船が続いていた。
艦隊の後尾には、給水船が二隻付き従っていた。
二隻の病院船「アリョール」と「コストローマ」は艦隊からやや距離を置いた位置に身をおいていた。
偵察用の二隻の軽巡洋艦が、二列縦陣のそれぞれの先頭艦と並行して航進していた。
艦隊の少し前方には、哨戒戦隊の三隻の巡洋艦が、正三角形の隊形を描きながら索敵を行っていた。
 日中八ノットで航行していた艦隊は、夜に入ると五ノットに減速した。

ロシア暦五月十三日、昼頃雨は上がり、時折陽が覗いた。
ロシア艦隊は速力九ノットで朝鮮海峡へ近付きつつあった。


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